『<時>をつなぐ言葉』ラフカディオ・ハーンの再話文学(8)
2014/10/04(Sat)
 牧野陽子著 『<時>をつなぐ言葉』ラフカディオ・ハーンの再話文学 第八章 海界(ウミサカ)の風景―「夏の日の夢」 を読みました。
 ハーンは、熊本赴任2年目の1893年(明治26年)7月に、熊本から長崎に一人で旅をしました。
 そのときの泊った浦島屋という、聞けば竜宮城を思わせるような旅館の名前から、『万葉集』の歌からとったチェンバレンが子どものために書いた『日本お伽噺集』の中にある浦島太郎のことに思いを寄せ、自分流に再話を語り、その再話を中心に、ハーンの随想が語られているのが、「夏の日の夢」です。
 この、解説書を読んで、「夏の日の夢」を読み返しました。以前この「夏の日の夢」を読んだ後に、ハーンの再話で従来の浦島太郎と違う部分をおもしろく感じたので、時たま仕事に行く児童館の子どもにあらすじは従来のお噺と同じにかたって、亀を助けた優しい浦島太郎のことを印象付けないで、ただ浦島太郎が約束を破って、玉手箱を開けてしまったために乙姫様はそんなこととは知らずかわいそうにずっと浦島を待ち続けさせた裏切り者として語ってみたりしました。
 作品中の次の部分が仏教思想と呼応して、大変印象に残っていたからでもあります。
 ≪もしかしたら浦島の秘密によって来るゆえんも、人の心の忘れっぽさにあるのではなかろうか。・・・・・一体浦島を可哀そうに思うのは正しいことであろうか。もちろん神々は浦島を途方に暮れさせはした。しかし神々を相手に途方に暮れないものがあるだろうか。生そのものが迷夢以外の何ものであろう。途方に暮れた浦島は神々の意図するところを疑い、玉手箱を開けてしまった。そして何の苦もなく息絶えた。人々は神社を建て浦島明神として祀り上げている。それなのに、どうしてそんなに憐れまなくてはならないのだろう。≫
と、ハーンが回想する部分を読むと、まるで蓮如上人の「白骨の御文章」を思い浮かべます。
≪紅顔むなしく変じて、桃杏のよそおいを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となりはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり、あわれというもなかなかおろかなり。≫
 この、≪生そのものが迷夢以外の何ものであろう≫と≪おおよそはかなきものはこの世の始中終≫を知るがゆえに、郷里に帰って知ってしまった現実に疑念を持つことはおろかなことで、箱を開けてはいけなかったのです。

 この牧野陽子さんの解説を読んで、いま作品を思い返すと、まったくハーンのこの旅が、一幅の絵のように感じられます。
龍宮城のような浦島旅館ですごし、さらに、夏の青く輝く海と空と山の美しさの中で、幾百年も物語られた浦島への思いに浸り、暑さの盛り、清流の水を飲み、車屋に75銭を支払い、あたらしい車夫の引く人力車に乗り、雨乞いの太鼓の音に胸を高鳴らせて、セツのもとに帰っていく風景が、まさに「夏の日の夢」として。

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