『義人の最期-明治維新と広島藩の騒擾』Ⅰ
2014/10/08(Wed)
  罪  状
                         山県郡有田村 武一 当未四十八才  
 「其方は八月四日村々の百姓の動揺の機に乗じ可部町卯介、壬生村の源左衛門が旧知事を迎えるを名目として隠に金集めする姦策に同意し広島に出たところ、その策は成功せず、また、本地村瀧蔵等の意見に従って一六郡一市の嘆願書を認めたことから大いに慾心を逞うし、一己の考えを以てこの義が容れられざれば法に逆らっても・・・・・の儀書を綴り多人数を引き連れて強訴するのみか、古屋村亀蔵が三村屋来助方においての異人搜索の談合に際し、よろしいと申し聞かせ・・・・」
と、刑場の場所を、過去いくつかの書物でのいろいろな説を列挙する中で、旧佐伯郡草津村(現、広島市草津町)として、処刑の様子が書かれている、昭和58年6月発行の吉川光著 『義人の最期-明治維新と広島藩の騒擾』を読みました。
この本は3冊の本を1冊にしたような本です。最初『武一騒動』が60ページ。そして、『木坂文左衛門獄死―可部天保銭贋造事件』が75ページ、『〈付録〉疑獄事件の構図と教訓』が20ページあります。
まずは、『武一騒動』について記録いたします。
 ―、概要
 二、騒擾
 三、騒擾の背景と動機
 四、西本屋武一郎(俗称) 
 五、処刑
 六、武一は暴動の最高の指導者であったのか
 あとがき
 この作品は、文学作品というより、公文書の資料集といった印象を受けます。騒擾の様子は、8月4日から10月4日まで、二ヶ月六〇日間の日を追っての日誌のようです。騒擾の背景については、藩財政が、開国以来の沿岸防備・長州戦争・戊辰戦争、さらに慶応4年と明治2年の凶作により逼迫し、重しい年貢・献金・調達・賦役など領主の収奪が強化され、生産の中心的担い手である農民は苦しい生活に追いやられていました。武一については、この運動を起こしたのも彼が石門心学者でって藩主への忠誠心から出たものと言われているとし、後、暴徒と化した農民と行動をともにしなかったことが、一種の裏切りと受け取られ、のちのち、それまでの一揆の首謀者のように、顕彰されなかったのではないかと述べられています。
 著者は、武一の旧藩主引き止めの真の目的は、新しい時代に生きねばならぬ農民が流言に迷って太政官に反対することによって、やがて起こるであろう混乱を未然に収拾するために、何はともあれ旧藩主が広島に残り新知事として政治を行うことが唯一無二の方策と確信し、そのため厳然として引き止め運動に立ち上がったとしています。
 
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
<<『義人の最期-明治維新と広島藩の騒擾』Ⅱ | メイン | 第170回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/702-66d93d20

| メイン |