可部峠(ダオ)登山
2014/11/25(Tue)
 11月21日の金曜日、隣接する北広島町の千代田本地から可部峠に登りました。
 今年の春、可部冠に登りましたが、このたびは、その裏側の千代田から可部冠に向かうということになります。可部冠への谷間が江戸・明治期の幹線「石州街道」で、山陰への近道で谷間の一番高いところが可部峠(だお)で、峠の茶屋があったところです。
 車で出かけ団地の下191号線を西へ、飯室から国道261号線を北上し、北広島町についてまもなく本地の伊勢ガ坊に「可部峠の御神水」という幟や大きな看板があり、そこを右折して「石州街道」の細い道を少し登っていくと広い駐車場があり、先日アンガールズがテレビで紹介したそうですが、浜田藩主や乃木季典将軍が往来のたびに渇きをいやしたという「可部峠の御神水」があります。
 ここに車を置かせていただいて、夫の体調に合わせゆっくりのんびり休みながら、1時間30分で到着。山を削った林道は舗装されてはいないものの広くて、トラックの通った跡が新しく、山中に入っていくとまっすぐ伸びた杉木立の杉の木が広く伐採されいるところもあり、トラックや乗用車、伐採のための重機があったりして、明るく森林の香りを楽しみながらの登山です。
 夫と登るときは歴史探索が主な目的です。以下の説明版を写真に取るという目的が十分に果たされました。
維新の謎
備前池田藩は徳川と親戚の大名である維新政府を転覆さして徳川幕府に再度天下を取らせる為か或いは最後の悪あがきか兎に角多数の撹乱隊を出して近郷の諸隊を扇動して反乱を起きさせ又は百姓共をして百姓一揆を引き起こさすのを目的に大監察付徒士(かち)上席探索方で白神(しらが)束一郎重房に和気逓太郎(わきとらたろう)と言う間者をつけて廣島―山口方面へ撹乱隊として出したのである
勤王の雄藩防長に於いてさえ討幕成ったその後は何もしてくれないので放棄された如く感違いをして反乱さえ起こしているのである
維新政府はそれどころではなかった内閣の編成廃藩置県の後始末鎭台の制定法律の創案等地方の末端までの手が届かなかった一時期があったのである
以上は明治三年の事であって武一騒動があったのは翌年の明治四年であり関連性なしとは言えない
撹乱隊は殿の蜜命を忠実に実行して廻ったがどこへ行っても政府の達しが廻っていて喰い込む隙がなかった
遂には身の安全さえ危なくなり白神(しらが)束一郎と和気逓太郎(わきとらたろう)は蔵迫の勝竜寺に於いて自殺したのである
邪はそれ正に勝ち難しとはこのことかもしれない
辞世の句
白神(しらが)束一郎重房 行年三十八歳
      年の内に春立つ安芸の山県に泡と消えゆく峯の白雪
         和気逓太郎(わきとらたろう)
     ひととせの内ぞと歩む旅の空今日立つ春を梅や告げけん 
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
<<『日向神話 1300年の旅』天孫降臨から神武東征へ  | メイン | 宮島の駒ケ林登山>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/715-05cbddac

| メイン |