第172回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2014/12/07(Sun)
12月6日、「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
朝、山登りはせず、平井呈一訳の「あみだ寺の比丘尼」を夫が作ってくれた本で丁寧に読み返しました。私の丁寧というのは、わからなかったりあいまいだったりする言葉は必ず広辞苑を引くということです。《町をかこむ渺々とした水田を小舟で渡らなければならなかったので・・・》の渺々を辞書でひいて、驚きました。当てはある漢字は違うもののびょうびょうという音の文字がいくつかあります。読んで、それぞれの文字の表す光景の違いを想像していると、平井呈一氏の時代のひとびとが、漢詩をよくしていたことがうかがえ、さらに、ハーンの熊本時代、彼が神様のように慕っていた漢学の秋月胤永先生から受けた漢詩の世界観にまで想像が広がります。
英文で読めないのが悲しいところでしたが、気を強くして、懇親会のあと雪で帰れなくなってはとタイヤ交換や、甘酒のだんどりを手伝って、大忙しでしたが、早めに到着できました。
いつも、ニュースプリントの2枚目にハーンと英語教育という項目が掲げてありますが、この英文を解読して、著者の心を読むという課題に名井先生がさらりと答えられ、26文字のアルファベットからできた文章のそれを読み解くことは英語の苦手な私にとっては順列組み合わせの観点からみて手品のようだと思えます。でも、きっと私も新しく買った辞書でこれを訳そうと心に決めました。
 そして、直前3回に分けて勉強した「草ひばり」のポイントのまとめも丁寧に書き留めてくださっていました。それに加えて、この作品をハーンの汎神論的信条によって違った角度からの理解もあることを示す、英米文学会編『英文学に見る動物の象徴』の「ラフカディオ・ハーンにおける「虫の文学」」(大東俊一)の引用文を添付してくださっています。
これは、その著者が、ハーンのすべての作品を知ることによって、ハーンの心に映る宇宙的な映像にハーン自身とそのほかの生物、そして意識を持たない空、海、風さまざまな物質までもが、どのように描かれているかに思いをはせ、達することのできるさらに深い味わいではないかと感動させられました。
付け加えるなら、ここでは対象が、より微小な草ひばりであったことによって、その二つの命がさらに幾重にも増して光り輝いて感じられたのではないかと思えることでした。
このブログを書きかけて、ある会合に出かけました。そこには9人が集まったのですが、一人はいつものように奥様に介護された脳梗塞で車椅子に乗った男性でした。テーブルに、3つの皿が載っており、それぞれに大体人数分のチョコレート、饅頭、なぜかコロッケが、入っていました。奥様は男性にそれぞれひとつずつ小さくしたりしながら、たべさせられました。あとは全員女性ですからおしゃべりは続きます。すこしして、男性がコロッケを大皿から取ろうとされると奥様がたしなめられました。「どうぞどうぞ」と、他の者はいいましたが、奥様が、テーブルの遠くへ押しのけてしまわれました。終始、よだれが出るのでタオルが首に掛けられてありますが、そのあと、男性はそのタオルを口にくわえてぎゅっと噛んでおられました。その様子が、日本舞踊で、口惜しい表現として、袖の裾を噛んでいる姿を思い起こさせました。さらに、足を食らう草ひばりへと想像は移ります。男性にとってその時間、食べる以外の楽しみがあったでしょうか。衝撃的な姿に出会て・・・・。
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