『ともしび』
2015/02/10(Tue)
 平成25年、広島県密教青年連合会(真生会担当)発行 第47号『ともしび』 を読みました。
 A3 2枚8ページからなる会報といったようなものです。
 先日、2月7日(土曜日)に虚空蔵山(こくぞうやま)登山の帰りに参詣した並滝寺に立ち寄ったときに、参詣者用に置いてあったのをいただいたものです。
 持ち帰ってゆっくり読んでみて、あらためてこういった神社、寺院などの意向をつづった書き物に、いままで全く目を留めて理解を深めようとしなかった自分を悔いたのでした。
 ラフカデオ・ハーンの会に参加させていただくようになり、そこで毎月いただくすみよし神社の発行されている『すみよし』を読むようになって、さらにラフカデオ・ハーンが生存中の最後の著作となったという『神国日本』を四苦八苦して読みながら、はじめてこのような書き物を真摯に読んでみようという気持ちになったのでした。
 表紙には安田学園の校庭で被爆したにもかかわらず生きつづけているというソメイヨシノの葉桜の写真がもちいられています。
 そして、残り7ページは
 1、神様と仏様           広島蜜青会  大願寺  平山真悠             
 2、祖母の人生を振り返り    福山即身会  法薬寺  釋 光教
 3、曼荼羅の中にいる私たち  尾道真生会  観音寺  末道弘聡
 4、高野山の伽藍         広島蜜青会  金剛院  常廣淳亮
 5、心の安らぎ           福山即身会  正善寺  今井隆博
 6、薬師如来について      尾道真生会  光音寺  吉武真仰       
 7、通信欄
となっています。
 そのなかで、日本では古来、神道と仏教がどのようなかかわりを持って日本人の心の中に根付いていったのかを説明しておられる部分に出会うことができました。
 1、の「神様と仏様」のなかでは、「お寺で買ったお守りと、神社で買ったお守りを一緒に持つと神様と仏様がけんかをするじゃろう」という素朴な疑問から、神仏のかかわりについて
 《仏教が日本に伝わってきた時に、日本では、仏教は私たち衆生を救済するために、神様のお姿を借りて目の前に現れ ておられるのだという本地垂迹説が広まったのです。神様と仏様は表裏一体として拝まれていたわけです。このようなこ とは今さらながら神仏習合を説くものではなく、私たち日本人の“信仰”の豊かさというものをもう一度見つめ直すものな のだと思います。》
と、述べられています。
 また、4、の「高野山の伽藍」では、伽藍のなかにある諸堂の説明のなかの【御社】の部分で、
《地主神である丹生・高野明神を勧請しています。この神の守護により伽藍を建立し神仏融合の始まりとなりました。》とあります。これらの説明は、ラフカデオ・ハーン著『神国日本』に述べられている、「仏教は神様に友達のように受け入れられた」という説明をあきらかにしています。また「神道という言葉については昔からあったものではない」との記述については、この会報では触れられていませんが、廃仏毀釈後鮮明になってきたのかなとも思われました。
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コメント
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 仏教と神教の違いや共通点は形として教えられた部分がありますが、自分が心を託するまでには至らず、キリスト教を真剣に学び教会へ通った中学生時代もありましたが、それも洗礼を受けるに至らず、その後の人生に宗教はかなり遠い存在になっていました。
それでも、何か不思議なことが続いたり、救われた命を思う時、神とか仏とかハッキリしなくとも、何か見えない大きな力に感謝している自分です。日本人の多くは神も仏も受け入れて暮らす大らかさがあるように思えてなりません。
ですから、異端だ、異教だと排斥しあうような暮らしはしたくありません。親鸞も可、日蓮も可、そうして小さなことにも命ある日々に感謝をもって暮らせたらいいように思います。
あかね様のお気持ちに全くそぐわないかも知れませんが、こんな感想でお許し下さい。
2015/02/10 23:39  | URL | みどり #-[ 編集]
- みどりさんへ -
 丁寧なコメントありがとうございます。
 私もなにかに心を託すということはないような気がします。ただ、人間の働きの中からこれだけの文化遺産を作り、これだけの神職の人や僧侶を養う作用は一体どのような気持ちから成り立つのかなと思う気持ちがあります。人間は何処からどうして何のために生まれ死んだらどうなるのかという疑問を男性は持ち続けるので宗教戦争なども起こるのでしょうか。女性は、冗談じゃないいっぱいの不安と苦しみのなかから子どもを生み育てているのでそんな疑問なんてありませんよ。という気持ちがあるので、死もまた、不安と苦しみのなかにあって当然ですと、自然に受け入れられるのではないかと思うのです。これだけ複雑化した社会に、離婚してわずかな収入で子どもを全部引き受けて一生懸命育てている母親を多く見るとよけい宗教を必要とするのは誰だろうと思います。
 しかし、そういう私も、毎朝仏様に御仏飯をお供えし、家族全員で「正信偈」を唱える家庭に育ったことを幸せに思っています。そして、自分の家族が大切にしている宗教と同じようにほかの人が大切にしている宗教も大切に思っています。
2015/02/11 19:35  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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