『侏儒の言葉』 
2015/06/14(Sun)
 芥川龍之介著 『侏儒の言葉』 を読みました。
 やはり、広島ラフカディオ・ハーンの会のニュースの中の資料に、中国新聞「緑地帯」の天満ふさこ著 「芥川多加志をめぐる旅」①~⑧の抜粋からの紹介を受けて読みました。
  この作品は、集英社発行の『日本文学全集28芥川龍之介』のなかには収録されておらず、古く実家から持ってきていた、昭和10年、岩波書店発行の『芥川龍之介全集第六巻』の中にありました。
 芥川龍之介の次男の多加志は、留年するほど授業に出ず、図書館にこもって龍之介の全集を背に本ばかり読んでいたといいます。背にしていた全集とはこの全集のことかもしれません。
 抜粋では「侏儒の言葉 小児」となっていました。
「侏儒の言葉」は全集の中の百ページですが、そのなかの小児は、表題を含めて以下の九行です。

 《軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りをよろこんだり、所謂光栄を好んだりするのは今更ここにいう必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学生にのみ見うる現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当たることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味になったものではない。勲章も―私には実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?》
 
 このように、タイトルをあげては、一行から、長いもので一ページ半くらいの分量で、彼の思いを格言のように書き綴っています。
最初に「侏儒の言葉」の序として、

《「侏儒の言葉」は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、―しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。》

読み進んで、ときおり繰り返し読んでいて、あるいは、この形式の文章はずっと以前読んだことがあるかもしれないと思い始めました。そのころは、彼が自殺する年齢よりはずいぶん若くて、賢者のことばとして受け止めたかもしれません。
 いまわたしは、彼の享年を三十一歳も過ぎていますから、生意気にも、「若い時分には・・・・。」などと思うところもあります。
しかし、この「小児」はどうでしょうか、時代は残念ながら繰り返すとでもいうか、最近報道をみていて、だんだん安倍総理大臣のやっていることが小児じみて見えることは否めないところです。
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