『須賀敦子のヴェネツィア』
2015/06/24(Wed)
 2001年河出書房発行 大竹昭子著 『須賀敦子のヴェネツィア』 を読みました。
 みどりさんに、須賀敦子のものは更に読むといいと教えていただき、きょう一日、何も予定がないのをいいことに、図書館に行ってとりあえずあるもの全部といっても3冊ですが借りてきました。
 大竹昭子氏が、須賀敦子のヴェネツィアでのことを偲んで、ヴェネツィアを訪れ書き綴ったものです。まずはうっとりいたしました。
須賀敦子の生涯と、ヴェネツィアの持つ、自然条件や歴史や景観、そこを、訪ねたときのことを書き綴った作品をなぞっての大量の写真と詩情あふれる文章に息を呑むこともたびたびでした。
 わたしも読んだ、『ミラノ 霧の風景』の「舞台のうえのヴェネツィア」からの引用もおおくあり、私のつたない読書により深い意味を持たせてくれます。
 ヴェネツィアについて、《島の形を眺めながら、ヴェネツィアが多くの人の手が施されて造られたことを思い起こした。ラグーナ(潟)にある干潟を人が住めるような土地にするために、想像を絶する努力が費やされなければならなかった・堅そうにみえる島の基盤は、実は木材でできている。硬い材質の木を、柔らかい地層の下に横たわる比較的硬いカラント層に無数に打ち込み、そこにイストリア半島産の石材を積み上げて島の基礎を作った。沼地のような干潟を石の都市に改造するという驚くべき発想を、誰が最初に思いついたのだろう。》からはじまり、ラグーナを死なせないための整備には驚きます。
 ヴェネツィアの特性としては、商業の中心地リアトルは、塩と魚しか取れなかったために早くから物資の流通と中継ぎでしか生きられず、近代的な意味での銀行の発祥地となり、またサン・マルコ広場は、もと中東の飲み物であったコーヒーが、ヨーロッパに伝わったのはここが最初で、さまざまな土地の人が行き交うコスモポリタンの街のため、情報や人脈を求めてカフェは人気を高めたと、その一端を述べています。
 須賀敦子については、つねに自分にとっての意味と、手ごたえを探ろうとして、なにごとを理解するにも時間をかけるのが彼女のやり方だと述べます。また、石とともに暮らすことに等しいヨーロッパでは《石が養ってくれたもの、それは「だれも自分の欲しいものを察してなんかくれない土地柄に向かって立つ力のようなもの」》と、その孤独に思いをはせています。また、ユダヤ人への思いも深く、《自分自身がヨーロッパに旅立ち、地図のない道を歩きはじめたとき、どの土地にいても異邦人であることを運命づけられてきたユダヤの存在が、より親しいものになった》と述べ、《旅をするように生きる者への強い共感があり、自らもまたそのように生きたのだった》とも言い切ります。ヴェネツィア大学で東アジア学科日本学専攻の主任教授を勤める、須賀敦子と親しかったアドリアーナを訪ね、須賀敦子についての感想を聞く場面があります。そのことを通して、生前の須賀敦子は、さまざまな顔を持っており、その顔ごとにちがう人間関係を結んでおり、それを混ぜ合わせずに個別に保っておくのが彼女の生き方だったとありました。
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