『須賀敦子が歩いた道』
2015/06/26(Fri)
 新潮社より2009年9月発行 著者 須賀敦子・松山巌・アレッサンドロ・ジェレヴィーニ・芸術新潮編集部の 『須賀敦子が歩いた道』 を読みました。
 これも安佐北図書館で借りたものです。三冊もお借りしたのですが、このところの読書遅延状態で、期限内で読み終わってちゃんと返せるかどうか不安でした。ところが、3日で三冊読み終わり、このところの読書遅延状態は、広辞苑にもないようなことばや漢字がいっぱい出てくる本ばかり読んでいるせいだと確信できて、少しほっとしているところです。
 須賀敦子のエッセイ集『ミラノ 霧の風景』・『遠い朝の本たち』の、あいだで、須賀敦子を偲んでの『須賀敦子のヴェネツィア』と、読すすみ、すっかり須賀敦子の世界に入っていきそうです。
 須賀敦子を偲んでのものは2冊目で、イタリアを中心の美しい写真満載ですが、すでに読み終わった2冊の引用文があるところは、必ず本文を見つけ出し、その章を読み返し、すこしでも理解ができていくことが楽しくて仕方ありません。
 新制大学の西洋史でブック・レポートの教材として選んだ14世紀のイタリアに生きた女性の伝記『シエナのカテリーナ』を原文で読んで、カテリーナの生き方から、当時、心もとない状態に勇気をもらったカテリーナにまつわる記念物の時空を越えた静かなたたずまいの写真が、『遠い朝の本たち』の「シエナの坂道」の引用文とともに須賀敦子のみつめたイタリアと宗教の一端を物語ります。
 パリ留学でフランス語になじめず、友だちに勧められてのペルージャの外国人大学の夏期講座でかよった、「極楽通り」の写真も『ミラノ 霧の風景』の「プロシュッティ先生のパスコリ」の引用文とともに紹介されています。この章ではプロシュッティ先生に出会えたことで、イタリア語とともに詩人のパスコリにいざなわれた大切な思い出を語ります。新しく付け加えられた別のエピソードも目に留まりました。親しくしていた松山氏がやはり大学の近くにあった「水道橋通り」を一緒に歩いていたとき、「須賀さんの家は水道屋さんだったから」と笑う場面です。夫から、須賀敦子の本を読んでいることを話したとき、須賀工業について話を聞き、彼女の建造物への関心の向け方が、創ることを基に置いたまなざしがあると思えたことを、松山氏も感じていたことに因んでのことです。父親が石工だった松山氏も、石の建造物に、作り上げる苦労を感じると他で述べているところがありました。
 イタリア人と結婚をして、6年足らずで逝ってしまった夫のふるさとトリエステの数枚の写真も『ミラノ 霧の風景』の「きらめく海のトリエステ」の引用文とともに、人間夫妻を思わせます。前のほうのミラノについての章で、夫がリーダーをしていたコルシア書店の推移を読んで、夫ペッピーノの重厚で思慮深さを感じていたこともあって、生活に追われる人々、異邦人、虐げられた人々を語らずには説明できないトリエステでは、ふたりの深い人間性に触れることができます。故郷がおなじで、おなじように書店をやっていた母親がユダヤ人のサバという詩人の肖像画の写真と、その表情を語った文章も引用されています。
 ついでですが、夫ペッピーノの父親は鉄道員で鉄道官舎に住み、父親のなくなって久しいのに、実家は鉄道官舎でしたが、映画『鉄道員』は、官舎の向かいが舞台であるとも「きらめく海のトリエステ」には書かれています。
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コメント
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あらあら!と感嘆するのですが、たちまち須賀敦子の著書や関連の本を読み切る、旺盛な読書力に脱帽しています。
トリエステの坂道を歩くと海風が遡ってくるような気がします。それと同じように、高く積まれた本を前にした「コルシア書店の仲間たち」イタリアの社会の変革を願いながら、須賀敦子氏も共に語り合っていたのだと思います。
 サバの詩集があります。数年前に買いました。言葉数は少ない詩人ですが、感性の豊かなすばらしい詩人です。須賀敦子という女性の中から流れ出すイタリアの風景、イタリアの友人たち、それら含めてイタリアへ憧れましたが、それも遠い憧れになりました。
 最近は日本の古典的物語の世界を読むことが面白くなりました。
2015/06/27 22:42  | URL | みどり #-[ 編集]
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 この書は写真といい文章といい素敵でした。それを堪能できたのも、当然その前読んだ2冊があったからだと思えます。
 みどりさんと雨上がりの緑の風のなか、エスとリアの海の切れ端を眺める空想にしたれるのも・・・・。
 
 『ミラノ 霧の風景』のあと、図書館に行くまで萩原恭男校注の『奥の細道』を読んでいました。
 元禄版『奥の細道』もあって、これを眺めながら読んでその読み方が気に入っていました。
 《行春や鳥啼き魚の目は涙。これを矢立の初めとして、行道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送るなるべし。》などは、最近道歩きをしていて、広島から旅立つときは、西は夫の実家から100mくらい手前の、「別れの茶屋」迄、北はこの前土砂災害があった緑井の「八軒茶屋」まで見送っていたのだと教えてもらったりしていたので、その地名が残っていることや、二度と会えないかもしれない旅立ちを思い巡らしていました。
 今日は、「お江戸日本橋七つ立ち、~♪」と歌いながら、朝から仕事に行ってきます。
2015/06/28 08:27  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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