『須賀敦子の方へ』
2015/07/20(Mon)
 2014年8月新潮社発行 松山巌著『須賀敦子の方へ』を読みました。
 第1章の、父譲りの読書好き(2010年冬・東京谷中、2009年夏・ローマ)
 (2010年冬・東京谷中、2009年夏・ローマ)の()は、私がつけたのですが、読み終わって、なかに挿入された写真の撮影年と場所のことかもしれないと思っています。          
 著者の松山巌氏は、須賀敦子の生前、彼女と親しく付き合い、さらに、彼女の全作品を読み、須賀敦子全集の編集にまで携わり、彼女の過ごしたイタリアの各地方、遺族、友人などをたずね、あらためて彼女について、本誌を執筆しました。
 この第1章では、読書好きの父親が、「これくらいは読んでおけ」といって、森鴎外の史伝物の『渋江抽斎』を勧めることに端を発し、『渋江抽斎』が、須賀敦子にあたえた影響について述べています。『渋江抽斎』で渋江抽斎の4人目の妻である、五百(いお)という女性が出てきます。須賀敦子の作品の中にその五百について語る部分が、多々あるようです。そのなかの、いくつかを引用して、須賀敦子は、その五百の生きる姿に、共感し、目標としていたのではないかと述べています。
 私が、はじめて須賀敦子を知ることになった、『ミラノ 霧の風景』にも父親に勧められた本として語られる部分がありました。読書好きで、充分本を求めて読むことのできた父親がぜひともといって勧めたとありましたので、『渋江抽斎』とはいったいどのような本であろうかと、読みおわって、『渋江抽斎』を手にとって見ました。ところがあまりにも面白くないので、すぐに投げ出してしまいました。松山巌も、お気に入りの石川淳が勧めていたので、読みかけたけれどやはり途中で投げ出したとありましたので、ほっとしました。
 しかし、松山巌は須賀敦子を知るようになって、ふたたび読み返したといいます。そして、なぜ、須賀敦子がそのように思うようになったかに気づくのです。
 私も、もう一度、開いてみました、森鴎外は、その一、その二、その三・・・・と、その百十九まであります。その三十の半ば近くまで読み進むと、やっと、渋江抽斎の四人目の妻として、山内氏五百が嫁して来ることになったくだりに出会います。それからを、要所、要所を読んでみました。
 そしていま、私は意外なことに気づきました。須賀敦子の父親、須賀工業の経営者である、須賀敦子の父親は、この山内氏五百の父親の娘の育て方に学びながら、須賀敦子を育てたのではないかと思えてきました。
《五百の父、山内忠兵衛は名を豊覚と言った。神田紺屋町に鉄物問屋を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁のなかに喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画をよくして、多く文人墨客に交じり、財をすててこれが保護者となった。・・・五百は文化十三年に生まれた。・・》その五百にさまざまな習い事をさせ、12歳で本丸に奉公させます。当時のこのような奉公は、習い事の一つと認識され、財を惜しまず奉公の支度をして差し出しました。・・その五百がのち、幕府直参になった渋江抽斎の妻として、その厳しい台所を切り盛りし、兄の放蕩によって傾きかけた実家を助け、姉の婚家も助けるのです。
 その凛とした五百の生き方を、学んで欲しかった父の思いを受けて、努力する姿を著者は須賀敦子にみてとったということに思い至りました。

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コメント
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 娘をどのように育てるかを、ご自分が読んだ本からお手本を見出したような須賀敦子氏の親御様、このような父を持ち得た女性には羨望を抱きました。
 思い出したのですが、幸田文さんのお父上であられる幸田露伴が、娘の文さんへ注いだ深い愛情にも思いが至りました。幸田文さんを読書会で取り上げ次々読んだ時期があったのですが、もし未だ幸田文さんの著書に触れていないようでしたら、是非にもと、お薦め致します。あのような格調の高い文章を書ける方が存在したことに衝撃を受けました。幸田露伴の小説も古典の部類に入るような時代となってしまいましたが、文さんの綴る文章にも今では使われないような言葉の数々が散りばめれています。
薪割り、ご飯炊き、水汲み、其の一つ一つを教え込んだ父親でした。働き甲斐のない夫を持ち、リヤカーを引いてお酒を売り歩いたことすらあった、幸田文さんの知性と良識は露伴の引き出したものでもあったと、当時の私は思いました。今すぐには著書の一つ一つを思い出せませんが、須賀敦子さんとお父上の話から色々記憶が呼び覚まされた思いが致します。
『渋江抽斎』読みませんでしたが、「神奈川近代文学館」で開催の森鴎外の展示会に文庫本が沢山積んでありました。
此処であかね様に解説して頂いた気持ちですが、五百という女性の表立たない中にも、凛とした姿がうっすらと浮かびます。
 父親も大事ですが、私たち母親は吾が子をどう育てたらよいのか、それなりに思い描いていたように思います。
絵本を読み聞かせたり、差別と偏見を植え付けないための努力など・・・。理念などと大袈裟には言えませんが、今日につながる親の生き方、示唆したものがあったと思うのですが、吾が子たちはあまり読書好きにもならず、内助の功を果たすこともありませんでした。話がとりとめなくなりました。お邪魔いたしました。
2015/07/20 21:46  | URL | みどり #-[ 編集]
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 幸田露伴の『五重塔』は、私が建設業に憧れる起因になった書でした。幸田文の本は読んでないので、読んでみます。
 『渋江抽斎』は、彼の子孫を尋ねあるいて、彼のことをより知ろうとする史伝ですが、具体的に子孫に接していくと、どの家系にも似たような喜びや悩みや苦しみがあると思えるころに人気があるのかもしれないと今思いあたります。
 資産を得ることは大変ですが、この資産を世間がさすがと思えるように使いこなすことは、資産を得ることよりも労力と知恵とセンスがいると思わされます。
 子どもは、親の思うように育つことはまれだと思います。この本の前に記録した『絶歌』がよく売れているのは、わが子の考えていることが理解できず、子育てに不安を抱いている親が多く、子どもの指導に悩む教職員など関係者が多いということではないかともおもいます。
2015/07/21 00:58  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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