『須賀敦子の方へ』 2
2015/07/30(Thu)
 7月20日につづった記録は、第一章のみで、しかも、第一章でさえ、森鴎外の『渋江抽斎』と、須賀敦子についての記録に終わってしまいました。
 中身が半分も反映されていません。
 そのあと、イタリアの女流作家ナタリア・キンズブルグと須賀敦子についての記述が続かなければなりません。
 イタリアの女流作家ナタリア・キンズブルグは、その母親が夢中になったブルーストの作品、『失われた時を求めて』の「スワンの道」を1942年ごろ25歳の若さでイタリア語に訳したことがあります。そして、1963年『ある家族の会話』を、1983年『マンゾーニ家の人々』を刊行しました。須賀敦子は、ナタリア・キンズブルグは、ブルーストの作品『失われた時を求めて』を訳したとき、その文体が好きになり、その文体に守られるようにして自分の文体を練り上げたことに気づきます。
 私には、ブルースト作『失われた時を求めて』も、ナタリア・キンズブルグ作『ある家族の会話』、『マンゾーニ家の人々』も手にすることができないのですが、文脈から見て、これらの作品の文体が、森鴎外が最後にたどり着いた、『渋江抽斎』の文体とも共通していると思わせられるのです。
 そして、長い時間をかけて読み終えた、松山巌のこの『須賀敦子の方へ』も、確実にこの文体を踏襲しており、さらに成功しています。
 須賀敦子をもっとよく知り、詳しく描こうと、彼女にまつわる場所や、人を訪ねて、その感想を書いていくのですが、読み進むにしたがって、彼女の経歴と、家族構成、性格が、変わるわけではないのに、その日その頃の、おかれた環境の、彼女の苦しみ、もがき、慟哭が伝わり、そんななかをどのように須賀敦子が切り抜けていかざるをえなかったかが、おのずと伝わり、そこにはまた逃れられない、時代の事情や波が、あることをいやというほど感じてしまいます。
須賀敦子という個人の、全くプライベートな人生であるにもかかわらず、その生きた場所にスポットを当てることで、その時代が明確に伝わる部分は、まさに彼にしか書ききることのできなかった史伝となって伝わってきます。
 読み終わってみると、読者が、そのような心持ちになることをきっちり計算した上で、この第一章に 伏線として、須賀敦子の作品からの抜粋
 《鴎外は、原書としたドイツ語訳の「格調」を日本語訳に移し変えようと、懸命になっている。だがそれだけだったろうか。私には、若い彼が取り組まねばならなかった欧米の言語の複雑なシンタックスの重層性を、そしてまた、彼がかってヨーロッパで目にし、見上げた、数々の建築物の、石の量感、構造の重層性を、そのまま文体にあらわそうともがいているようにも思えるのだ。徒に俳文の軽みを追い、奥行きのない情緒的な文体に流れようとする日本の文学語に、厚みと格調の高さを持たせようとしたのではないか。(そしてのちに一群の「史伝」で実ることになる。)鴎外の苦心は、すでに「即興詩人」の訳文に読み取れる。》
をのせています。
 著者は、さらに、ヨーロッパに行ってからの須賀敦子についても、歩みを速めないで、ゆっくり書くことを予感させて文を終わっています。
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