『泣き虫しょったんの奇跡―サラリーマンから将棋のプロへ』
2015/08/05(Wed)
 2006年、講談社発行 瀬川晶司著 『泣き虫しょったんの奇跡―サラリーマンから将棋のプロへ』を読みました。
 いつもテレビも新聞も良く見ない私が知らなかっただけで、世間では話題になっていた話のようです。
 1970年、3月23日に神奈川県横浜市で、サラリーマン家庭の3男として生まれ、次男のお兄さんのあとばかり追っていた子どもだったようです。
 1980年5年生のときの、苅間沢大子(ひろこ)先生が担任になり、みんなのやりたいことを認めて伸ばす方針によって、彼も自分に自身が持てるようになり、成績も上がり、将棋への興味もほめられて、クラスで将棋のルールを知らない女の子にも全員教えることで、変わっていった自分を認識するようになります。
 そのころから、自宅の道路向かいの幼馴染の同級生渡辺健弥くんも将棋が強くお互い港南台将棋センターの今野さんの指導でライバル同士成長してゆきます。中学二年の10月、今野さんに内緒で、安恵照剛七段の奨励会試験を受けて二人とも落ち、中学3年の夏、全国大会の中学生選抜選手権で彼は優勝、一週間後に行われた中学生名人戦では、二人は準決勝進出をかけて戦うことになり、勝った健弥君も決勝で負けて準優勝になりますが、彼だけが10月の奨励会の試験は受け、1984年 安恵照剛七段門下で奨励会6級入会をはたしプロへの道を歩むことになります。しかし、26歳までに、4段にならなければ、プロ入りはできないという決まりになっており、遂げられず、やむなく、12年後の1996年、退会駒をうけとって、奨励会を退会します。
 26歳の誕生日に、東京のアパートを引き払って、「これで本当に僕は死んだ」の思いで、週に一度、月5万円の指導料をいただいて、将棋を教えていた平井さんにお別れのご挨拶に立ち寄りました。平井さんは全く上達しないどころか、下手になっていたのに、忙しくなるまではこのまま指導して欲しいといってくださり、感謝してかえる。
 それからは、昼間は、スーパーで働きながら、神奈川大学第二法学部法律学科にまなび、弁護士を目指します。弁護士志望はあきらめたものの、社会で働いて生きていく自信は徐々に身についていきました。
 それまで、健弥君はアマ名人戦で優勝しアマ最強といわれるまでになっていました。また、以前のように、健弥君の家に行き来するようになっていたある日、健弥君と将棋を指し、将棋を指す楽しさを思い出していき、健弥君のよく通っていたかまた将棋道場にいきはじめ、奨励会退会後1年半たったとき、「平成最強戦」に出場して負けはするものの、アマ将棋の世話をしている安藤正樹さんに出会います。
 安藤さんは、将棋ファンの数が年々減少していることを憂えて、アマの面倒を良く見ている人でした。アマの人々との出会い、目からうろこが落ちる経験をしたかれは、以後、手をつけていなかった退会駒を取り出し、大学へ行く時間とアルバイトと以外は将棋の研究を始めます。大学卒業後の就職先のNECの取引会社である株式会社ワイイーシーソリュウションズ営業システムエンジニアとしてサラリーマン生活を送る傍ら、NEC将棋部に所属して、安藤さんや職場の人の応援で将棋会のルールを変えプロに返り咲くのでした。
 読み終わって、私も職場では、私に勝てるようになりたいと思っている中学生が来る間は、自分にも何か役に立っていることがあるように思えました。
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