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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 3
2015/09/12(Sat)
4 ハーンの松江時代   福澤 清 (熊本大学教養部助教授)
 この章では、6枚の写真と1枚の絵があります。
 1枚目は「宍道湖の落日」、2枚目は「富田旅館跡」です。ハーンは来日して横浜から、まもなく1890年(明治23年)8月30日午後4時に松江の富田旅館に到着します。そして学年始めの9月3日には松江尋常中学で教壇に立ちます。
 ここでは、アメリカから日本に来て、松江尋常中学で教壇に立つまでのハーンの財布の中身について知ることができます。親しくしていた『ハーパーズ・マンスリー』の美術主任のパットンという日本通の友人が、カナダ太平洋鉄道汽船会社社長とかけあい、日本への往復の汽車汽船の優待券とお金を獲得してくれ、松江尋常中学は給料前借の契約で雇用してもらったのです。10月下旬~11月中旬頃に富田旅館から転居するまでは、富田旅館から勤務します。ここでの生活ぶりが、桑原洋次郎著『松江に於ける八雲の私生活』の中の引用から、富田ツネの詳細な語りを直接読むことができて、大いに楽しめます。まず、旅館では到着のとき早速お風呂をたて、白浴衣を出したのを気に入って、以来旅館では浴衣で通したということです。もちろん迎えた県庁のお役人が挨拶にこられたときにも、役人は県庁から借りてきていた椅子に座り、ハーンは浴衣姿で正座してという珍風景でした。
 3枚目は、「荒川亀斎作の石地蔵」、4枚目は「西田千太郎」、「ハーンの家紋をデザインした魚州の手になる松江大橋図」の絵、5枚目は「眼病治療に霊験あらたかとして信仰を集める一畑薬師」、そして6枚目がよく目にする「20歳頃の小泉セツ」の写真です。
 ハーンは、横浜から同行した真鍋晃がまだいる頃は、昼間は茶話や昼寝をして、夜は毎晩のように神社などへ散策に出かけます。9月15日には、やはり真鍋晃を伴って、出雲大社に行き、第81代国造、千家尊紀宮司と面会し昇殿を許され宝物を見せてもらっています。9月28日には龍昌寺で、荒川重之輔(亀斎)の小さな石地蔵に魅了され、後に、彼を呼んで地蔵尊などを造ってもらい、あるときは亀斎に、交友の深かった西田千太郎と師範学校の英語教師中山弥一郎2人を富田旅館に呼んで御馳走をしています。
 富田旅館から末次本町の京店織原方の離れ座敷に転居してからの松江大橋界隈の風景や、人々の生活の物音、しぐさへの感動は、「神々の国の首都」に美しく描かれています。取材活動の一環でもありますが、富田旅館の眼を病んでいる女中のおノブを連れて、一畑薬師に参拝します。いつもの参拝のようにここでもずいぶん寄進します。おノブには治療代は自分がすべて支払うからと医者に見せ、医者はハーンの気持ちに感激し治療代はとらずに全快させたということでした。西田千太郎が結核になって寝込んだ時もたびたび見舞っています。正月はおツネに紋付羽織を新調させ、挨拶回りをしていましたが、今度はハーンが風邪を引き、ノイローゼも併発し、西田千太郎が見舞っていましたが、彼の身の回りの世話をするために小泉セツを世話します。
6月22日北堀町の根岸千夫方に転居、ここでは庭付きの武家屋敷のたたずまいに深い思いを寄せています。お庭の小さな生き物に心を寄せて慰められます。
 10月初旬にチェンバレンから熊本への就職の手紙が届き、松江の寒さ、給料が倍になること、セツが心無い人に悪し様に言われたこと、執筆のための材料探しが転任の理由か、26日の最終講義で解任になっています。
 11月15日(日)午前8時北堀の家の前に200名の生徒が集まり、大橋西桟橋へ行進し、多くの人々の見送りを受け、汽船で宍道湖を渡っていき、あの「さよなら」の作品ができます。
松江の人たちが、ハーンをどのように感じていたかの記述に至りませんでしたが、ハーンの記憶に残る日本が、松江にあることを思えば、このテキストの著者も書き足りなかったかもしれません。

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