『岩宿遺跡のなぞ』
2015/10/17(Sat)
 たかしよいち著・寺島竜一絵 『岩宿遺跡のなぞ』を読みました。
 1976年2月初版・1978年10月7版 国土社発行で、日本発掘物語全集全15巻中の3巻です。
 Mさんに大量の本を頂いて、大量すぎて、背表紙をほとんど確認できずに、収めたのですが、この本だけは背表紙を見たとたん読みたいと思った本でした。
 ずっと以前から、相沢忠洋というひとにとても興味があったからです。
 子ども向けの本ですが、この本を読むと、相沢忠洋という人のことや、旧石器時代のことが、1976年時点でどのようにして明らかになろうとしているのか、その両方がよくわかってきます。
 著者が、岩宿の北10キロにある、当時の群馬県勢多郡新里村奥沢夏井戸に、相沢忠洋の「赤城人類文化研究所」をたずね、本人からいろいろ聞いての物語りです。
 著者は、昭和45年1970年にも赤堀村に「考古学野外教室」のひとたちと相沢忠洋を訪ねていて、そのときのことにも触れられています。
 また、忠洋少年が子どもの頃、習った日本の歴史教科書の内容、「第一 天照大神」・「第二 神武天皇」が6ページにわたって引用されています。そして、終戦後、天皇が人間宣言をされたあとに、「第一 日本のあけぼの 1、歴史のはじめ ・ 2、大和の朝廷」とかわった教科書の引用もありました。
 昭和8年、小学3年生のとき鎌倉の浄明寺御所之内というところで、家を建てるための基礎を掘っている現場で壊れた焼き物のかけらを作業員さんに許されて、いっぱい拾い、これが縄文土器のかけらだと現場に訪ねてきたおじさんに教えてもらいます。
 昭和12年夏、桐生に引っ越し、やはりここでも縄文土器のかけらを拾い、さらに黒曜石の矢じりも見つけました。
 まもなくすぐに東京の浅草の履物屋に奉公に出され、翌年の春から夜学に通うようになります。1年たって月2回の休みがもらえるようになり、そのなかの1日は10銭もらって好きなところに遊びに行けるようになりました。浅草の三社さまの夏祭りで、石おのを買います。これを学校に持って行き、友達や先生に見せると、先生は、その日の授業は考古学と博物館の話しをしてくれました。休みに上野公園の帝室博物館に行き、たくさんの遺物の展示の説明を読みます。縄文時代を前期、中期、後期、晩期に区分してあり、最も古い縄文時代前期の土器は今からおよそ3千年前だと説明されていました。ここでは博物館の守衛をしている数野甚造と知り合いになり、関連の本や雑誌を貸してもらうことができました。その中の博物館のパンフレットから、板橋の小豆沢で縄文土器が発掘された写真を見て、9月の休みに出かけ、水を飲ませてもらいによった家で、縄文土器のかけら(縄文時代・前期末・諸磯式)をたくさんもらい、それらがあった畑を案内してもらいました。そこでは貝塚をみとめ、改めて発掘に来させてもらえることになり、休みに出かけ堀進んで、大きな縄文土器の破片を発掘しました。それらを数野甚造を通して考古学の先生に見てもらい、本格的な発掘によって、のち四枚畑貝塚と名づけられました。
 このように、どのような境遇にいても考古学への情熱をもちつづけ、発掘への努力を通して、それ以後も、日本の大昔の歴史を次々塗り替えていくドラマを堪能できました。
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