『山椒魚』ほか短編三作
2015/11/20(Fri)
 井伏鱒二著 「山椒魚」「鯉」「屋根の上のサワン」「休憩時間」を読みました。
 2011年第8刷発行の、偕成社文庫『ジョン万次郎』の「ジョン万次郎」のほかに収録されている作品です。どの作品も短いものなので、2度3度と読み返します。
 手放せなくなって、アスファルトの上に惜しげもなく散り落ちた枯葉の裏の山道を読みながら歩きます。「鯉」を読み終え、目頭を熱くしてふと見上げると、正面の鮮やかな朱色のヤマハゼの葉が目に入り、その美しさにはっとさせられました。
 このような感動的な作品を30歳前後で書くことのできた井伏鱒二とはいったい・・・。
 《すでに数年前からわたしは一ぴきの鯉になやまされてきた。学生時代に友人青木南八先年死去が彼の満腔の厚意からわたしにこれをくれたのであるが、・・・・》からはじまるこの『鯉』という作品。鯉を大切にするとはいったものの、下宿暮らしで池を持たないので、困っていたのでした。下宿のひょうたん池へ放って、下宿をかわってからしばらくして釣り上げて、青木南八の愛人の所有の池に放させてもらい、青木南八が亡くなると、釣り上げて早稲田大学のプールに放し、毎日見物を欠かしませんでした。氷の張ったプールに薄雪が降った朝、以前みかけた、その鯉が広いプールを王者の如く泳ぎまわり、そのあとに幾匹もの鮒や鮠やメダカが送れまいとつきまとって白い鯉をどんなにもえらく見せていたあの光景を池に大きく描きます。病気で逝ってしまった友人、職もなく眠れない夜を明かす自分の心を慰めるその状況が目に浮かび、読み終わったあと目頭を熱くしたのでした。
 この友人が自分にたいして、疎ましい顔をしたことは一度きりでしたが、この鯉を大切に思っているその思いを二度目にいったとき、自分に対する追従(ついしょう)だと思ったらしいときだったことを印象深く書いています。(ここででてくる追従ということばは、わたしはのわたしのふるさとの方言かと思っていました。こうやって、パソコンで「ついしょう」と打って変換できたので驚きです。)
こんなところに井伏鱒二のお追従を言ったと思われたことへの恥ずかしがるという性格がでているとも思えました。
 三田村信行の解説も読みました。
 自分でも持て余すくらいの、やるせないような屈折した「思い屈した」こころと「とぼけたような存在感」について。「思い屈した」心を感傷に流されずに客観的にとらえ、冷静に分析することによって、「とぼけたような存在感」にかえて、ぎすぎすした日常世界に取り囲まれているわたしたちの胸をほんのりくつろげ、豊かな気分にさせてくれる。これが文学作品の素晴らしさだとあります。この解説を読んでまた読み返し、違った読み方ができてさらにたのしめました。

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