「塵」
2015/11/30(Mon)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「塵」 を読みました。
 1990年発行の講談社学術文庫『日本の心』の中に収録されています。
 以前、岩波文庫の『心』を読んでいたので、パラパラッとめくって自分勝手に同じような作品が収録されているものと読まずにいたために、このような素晴らしい作品ともしらずにいて、今夜はじめて読みました。そして結構衝撃を受けました。
 「Dust」と訳されていて英語に不案内なわたくしはすこし違和感を覚えるのですが、これは仏教で言うところの「塵」のことです。
 タイトルと本文の間に、
 《「菩薩はかく観ず、万物は虚空の性を持ち―――永遠に虚空に等しく、実態も実質もなきなりと」  妙法蓮華経》とあります。
 ハーンは、散策に出かけて、子どもたちが土をこねて遊んでいるのに出くわします。子どもたちが土をこねて作っている造形物を眺めているうち、これら造形物と現実世界にあるものとにさ程ちがいがないであろう。いっさいは幻である。との衝撃にとらわれるのです。そこから思索ははじまり、すべては「塵」となり、その「塵」から、また全てのものが造られる。この輪廻の法則のなかを思索するのです。この「塵」の輪廻の中で、たとえば《涙になったことのない露――いったいそういうものがあるだろうか。》とあります。この作者の感性の衝撃に読んでいる私も強い衝撃を受けました。
 仏教徒でも、わたしは妙法蓮華経ではありませんが、あれほどよく耳にし、唱えもする蓮如の「白骨の御文書」のなかにも「・・・我や先人や先、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずくすえの露よりもしげしといえり・・・」とありますが、そのしげしといわれる露ですが、その露に彼は涙になったことのない露があっただろうかとの思いにいたるのです。そのように思った人がかってあっただろかとの思いに衝撃をうけるのでした。
 ある力によって、人体とは細胞という名の固体が一時的に寄り集まったものに他ならない。霊魂とは前世に生きた生命の断片の、無数に寄り集まったものである。《その力についてわかっていることといえば、宇宙という幻影の創造者に帰属するということだけだ。》そして、自分のなかには、いろいろな思いや望みがある。自分の中に群衆がいるとのべる部分でのこの説明にはユーモアを感じさえします。
 《少女の鳩のような優しい声によってわたしの夢は破られた。少女は幼い弟に「人」という漢字を教えようとしているのだ。・・・「どちらも相手の力でやっと立っているでしょう。一本だけでは立っていられないの。だからこの字は人間と同じなの。助けられなくっては、人はこの世で生きて行かれません。助けられたり助けたりして誰も皆生きていくのです。もし誰も助けてくれなかったら人は皆倒れて死んでしまうでしょう」・・・》この説明は言語学的にはただしくはないが、《どんな出来事にも倫理的な意味を賦与した古風な教授法の、世にも美しい一例である。それだけではなく、一個の道徳的教えとしても、そこには地上の全宗教の精髄と地上の全哲学の精華とがこめられている。》とあります。
 まさにこの仏教を論じたこの作品こそが、わたしにはそのように思えました。


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