『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』9
2015/12/13(Sun)
 10 人生の考察――「小品」鑑賞  首藤基澄著(熊本大学教養学部文学教授)を読みました。
 この一考察の最初に、小泉八雲の作品は全て英文で書かれているが、漢詩や漢文と同じく日本の文学に同列に加えることによって日本の近代文学はより豊かになってくることが述べられています。
 読んだときは、強い衝撃を受けたのですが、よくよく考えてみれば、すでにそうなっていることに気がつきました。わたしが広島ハーンの会で学習させていただくようになって、安佐北図書館でハーンに関する図書を検索してみると、子ども向けの図書の中におおくの彼の「怪談」があり、また、津波から人々を救った、「生き神様」のお話があることを知りました。
 日本の子どもたちは、わたしたち(昭和24年生まれ)世代も含めて、子どもの時分から、日本の怪談話を、そして日本の神様の意味を彼の翻訳された作品を通して知っていったのではないでしょうか。
 日本の近代化によって、あるいはすたれてしまいそうなこれらのお話に親しんできたことで、わたしたち民族の心のおきどころを見つめることがあったのではないかと思いました。
 そしてハーンのおおくの作品を「小品」(スケッチ)とジャンル分けしています。
 その「小品」のなかで日本人に親しみやすい『東の国から』の「夏の日の夢」を構成する序破急の分析をなし、「妙にさみしい思い」に耐えて生きている日本人を描き、あるいは、『心』の「旅日記から」の大阪京都間の車中ででは、「自分というものを殺しつけている自制心」の強い日本人を描き、『東の国から』の「勇子」や『心』の「ハル」に「完全なる無私の理想」を描いており、これらの「小品」に心惹かれることが述べられています。
 さいごに『心』の「停車場で」のなかの日本人の大衆の思いについて
《情にもろく、自分の弱さを知り、「自分に対する同情」をあらわにして生きる日本人は、行雲流水のごとく物事に拘泥しないで生きようとしているように見える。八雲の描いた日本人は、近代的な自我の態様などにまったく関心を示さない庶民であった》と述べています。
 これら日本人の特性に憧れを持って描いているハーンとは、反対のベクトルを持つ作品を描いた、日本から少し遅れて外国に留学して、日本人に対して嫌気を催す高村光太郎の作品が紹介してあります、しかしけっきょく、高村光太郎のこの気持ちは、「浮世のままならなさと人間の本性の弱さ」を描いた『心』の「停車場で」のなかの日本人の大衆の思いと一致していることを思わせられました。

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