『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』12
2015/12/16(Wed)
 13 ハーンの神戸・東京時代  西川盛雄著(熊本大学教育学部英語学教授)を読みました。
 表題をみて、神戸・東京時代のことへの言及かと思いましたが、これは、ハーンの生まれてから亡くなるまでの「伝記」ものといった体裁のものでした。
 神戸・東京意外でのことも、同じペースで語ってあります。
 しかし、これはこれでたいへん楽しく読むことができました。
 部分的の考察ばかりしていると、彼の全体像を見失いがちでもあります。
 何度確認しても、本を読む姿勢を変えただけですぐに忘れてしまう私のことですから、このような作品を読むと、便利帳としていつでも利用できます。
 とはいっても、神戸でのことはほとんどわからずじまいで過ごしてきました。
 神戸の外国人居留地では、《田部隆次も言っているように、「ヘルンにはどこまでもはっきりした個人主義の英国風よりもぼんやりした家族主義の日本風が好もしかった」以上、欧米の個人主義的雰囲気の広がる神戸での日常生活になじみと安らぎを感じることは、ほとんどなかったであろうことは容易に想像される。》といった心持が説明されています。
 また、仕事としていた『神戸クロニカル』での論説では、《「干渉政策」や「日清戦争の予想される結果」では、日清戦争をめぐってヨーロッパ列強の共同干渉に疑問を投げかけ、清国との戦争が日本のもっている軍事的な予期せぬ能力とそれを可能にした侮りがたい資質の存在を証明したものであることを説いている。「日本の教育制度」では、英語を日本の国語にすることや外国の考え方を日本人の考え方の代用にしようとすることの無意味さを説いている。「日本人の体格」では、栄養のある食物の欠如、過度の労働、早婚などの習慣などが、日本人の体格・体力の増大をむしろ阻害してきたが、国力の増進と新しい教育制度の導入とあいまって、それはやがて著しく改善されるだろうと予測している。「国民性について」では、人類史上稀にみる忠誠心や愛国心が、ごく当たり前の義務として日本の一般人の間に浸透していることについて述べ、これらは個性の欠如といったものではなく、日本人の国民性がもっている途方もない力の驚くべき証拠だと説いている。ハーンの視点は、自ら「文明」社会だと思い込み、時に自惚れているヨーロッパ社会への懐疑を鋭く発する一方、「未開」と思われている社会にはその社会独自のすぐれた歴史と文化があることを主張している。》ということでした。
 ハーンは、松江から熊本、熊本から神戸、神戸から東京と、皮肉にも生活の舞台はますます近代化、さらには西欧化のすすんでいる都市に向かって移り変わっていったのですが、外的な実生活において壊され裏切られていくものが大きければ大きいだけ、それに反比例して内面に築きあげていったものがさらに大きくなり、評論あるいは物語文学という「かたち」となって残されたのではないだろうかと、締めくくられていました。 
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