『戦争はどのように語られてきたか』
2008/01/09(Wed)
川村湊・成田龍一他による『戦争はどのように語られてきたか』を読む

年末から正月にかけて少しづつ読んだ。
読んでいる時間より書かれてあることについて反芻して考える時間がずーっと長かった。
この本は1999年、今から8年位前に朝日新聞社より出版された本だ。
文芸批評家の川村湊と歴史研究家の成田龍一と他の社会学者、または小説家、言語社会学者、小説家・戯曲作家、5人をそれぞれ加えて三人の鼎談で内容に立体感を持たせるような構成になっている。
川村湊が「はじめに」を書いているのだが、

≪私の個人的な体験から言えば、「戦争」についてもう一度考えて見なければならないと思ったのは、「湾岸戦争」とその一連の報道と日本における「動き」がきっかけだった。・・・・・・二項対立によって抗争・角逐するという二元論的世界ではなく、どこに歴史の中心や重点があるのかもわからないような散漫とした「戦争」だったのである。
それはカンボジアやアフガニスタンで繰り返されたような、どちらの側が勝利しても、大多数の人々の不幸の程度はほとんど変わらないという「戦争」であり、大儀名文のない「戦闘」の持続なのだ。・・・・・・私はどちらが正しいといった判断とは別次元のところで「戦争への関与」を否定しなければならないと思ったのである。≫

とある。

この5章からなる鼎談は、第二次世界大戦についての体験・記憶・記録を書いたさまざまな文学作品や体験記が、移り行く世界の情勢に応じて微妙に変化していることを注意深く分析解明している。
その経緯については、私達の知るところであるので、私達ももはや歴史の一員になっていることに改めて気づく。
これからも変化しながら語り継がれていくだろう。
これらの第二次世界大戦についての語りが、これからの日本のあり方を指し示す役割を大きく担っているともいえる。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、あの長編大作で日露戦争を語ることによって、第二次世界大戦のおろかさを暗に語っているような思いで読んだことも思い出す。
司馬遼太郎は日露戦争について国民に正しく伝えられなかったことがその後の戦争につながったのではないかという思いで『坂の上の雲』を書いたとどこかでかでのべていた。

第二次世界大戦までは戦争をそれぞれが家庭の映像で「見せられる」ということはなかった。
しかし、戦後生まれの私達は小さな「抗争」「闘争」「戦争」は茶の間でテレビを通して解説つきで日々知ることができる状況だ。
茶の間の思いが政治につながる状況でもある。
短絡的にならないよう過去の戦争について耳をダンボにしておく必要がある。


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