続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』3
2016/04/13(Wed)
 中村青史著 3「願望成就」論 東西死生観をめぐって を読みました。
 この再考論文は、わずか6ページだけという大変みじかいものです。そのみじかい作品のなか、「願望成就」以外にも「石仏」「柔術」「九州の学生とともに」「極東の将来」など、日本の宗教観・文明観に言及した作品にもふれながら再考されています。
 最初に読んだのはたしか昨年の秋でした。それから何度か記録を書こうと思いながら手が止まっていました。「願望成就」と「極東の将来は」訳文を読んだことがあったのですが、そのほかの「石仏」「柔術」「九州の学生とともに」は訳文を読んだことがありません。もちろん読んでいなくても理解できるように端的に論が進められているのですが、どうにかこれらの作品に出会えないかと、めったに行かない旧市内に出たとき古本屋などをさがして歩いてみたりもしました。結局は出会えず、今に至ってしまいました。
 《国家のために戦死するという、しかもそれはきわめて形而上学的な願いが叶えられたという「願望成就」は、小須賀浅吉への挽歌であった。・・・》から始まるこの再考論文は、戦後生まれの私たちが読むと、まさに形而上学的なこと以外の何でもないのですが、明治維新以後、国家と個人のこういった関係がおおかた70年、私たちの親にいたるまで続いていたことを思うと、胸が熱くなり、あるいは胸が凍りつきます。
 《「供養というと、死んだ人の供養かね?」
  「はあ。もうおわかりになられたでありますか?」
  「そういう事実は、それはわかったがね、しかし、そういう気持ちが、どうもよくわからないね。いまでも軍人はそういう信念を持って いるの?」
  「もちろん、持っております。西洋には、こういう信念はありませんですか?」
  「ちかごろではないね。大昔のギリシャ人やローマ人は、先祖の御霊というものは家のなかに宿っておるようなものであって、供え 物や供養を受けて、家の者を守っていていてくれるものだと思っていた。・・・」》
 時代のさなかにあってハーンは、小須賀浅吉の死生観をとおして、西欧と日本の宗教観・文明観の違いを見つめていきます。
 ハーンの作品では、西欧的なものと日本的なものとの間に、母親の国ギリシャを理想のものとしてみる視点がよく現れるのですが、ここでもそれが感じられます。
 ハーンを、ボヘミアンであり、世界のリポーターであったと考えるとき、この美しい国土、素直で勤勉で清潔好きの愛すべき日本人、このような「願望成就」のために死んでゆく若き日本人、それらがやがて富国強兵を目指し西欧化を勧め、強大な帝国化をおしすすめる国家のために、侵されていくことをじっと憂える作品にするしかなかった。
 後々、ハーン自身の3人の息子たちの将来のことはどのように考えていたのだろうかと思います。
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