『郷土史紀行』
2016/04/16(Sat)
 村岡幸雄著「四境戦争」1~4を読みました。
 1999年10月10日・1999年12月10日・2000年2月10日・2000年4月10日発行の『郷土史紀行』のなかの「四境戦争」を読みました。
 毎日の裏山登山のとき、山口市出身のMさんに四境戦争についてうかがったところ、何冊かの本を貸してくださいました。まずはそのなかの、4冊の冊子の「四境戦争」を読みました。
 慶応2年(1866年)6月に勃発した「四境戦争」。4回シリーズなので、世にいう、第二次長州征伐の、石州口の戦い・大島口の戦い・芸州口の戦い・小倉口の戦いがそれぞれ1回づつに4回にわけて、書かれてあるのかと思ったのですが、4回とも石州口の戦いでした。
 作家の書くものではありませんから、歴史小説を読むように物語の展開のおもしろさでさきさきページをめくって読むというようなものではありません。 でも、著者が郷土研究をされている人らしいこともあって、古文書を読み解きながら、土地の風景と先祖の思いが語る「四境戦争」といった趣で楽しめました。
 島根県益田市多田町に石州口の戦いの発端となった「扇原関門跡」があり、この津和野藩領と、浜田藩領の国境の関門を通過しようとしてさしかかった長州軍の大村益次郎と、浜田藩士の岸静江国治の壮絶な戦いがあったのです。そこから250メートル坂道を下ったところに、岸静江の祠とお墓があり、さらに近くの戦死跡には岸静江戦死の地と掘られた碑もあるとのことでした。敵である長州軍は、職責に殉じた彼の崇高さを賞賛し、梅月村の西禅寺の住職に供養と埋葬を依頼し墓碑建立の委託金を授けたとありました。
 この関門を突破した長州軍は、さらに浜田兵、福山兵を攻めました。万福寺にいた浜田兵を攻めたときの弾丸の痕跡が今も残っています。浜田藩主は、広島総督府に応援を要請したので、浜田藩主の実兄である鳥取藩主に応援を命じましたが、鳥取・岡山藩とも止戦交渉をするよう勧告してきたといいます。長州藩の止戦交渉に対して、浜田では恥辱であるとして城に火を放って、来泊していた松江藩の舟に藩主を擁して因州鳥取へ落ちてゆきました。
 大村益次郎の活躍は、いろいろな歴史小説に描かれていますが、ここでの記録を読むと、大村益次郎の活躍というよりは、やはり、戦いの無情さの悲しみをひとしおに感じてしまいます。
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