『浜田城炎ゆ』
2016/04/26(Tue)
 小寺雅夫著 『浜田城炎ゆ』を読みました。
 裏山登山でMさんが貸してくださった本です。
 島根県浜田市の浜田藩の、幕末前後のお話です。
 浜田藩は、5万4千石の小さな藩です。しかし、そこで最後の藩主となった松平武聰は時の徳川幕府将軍徳川慶喜の弟なのです。しかも、近隣の鳥取藩主池田慶徳・岡山藩主池田茂政などの弟でもありました。
 藩主の武聰は弘化4年(1847年)5歳のときに浜田藩主松平武成の養子となりました。当時、藩には百三万両の負債がありました。成長するや、健全な財政を目ざして、不正を正し、治水事業、殖産興業に精出し、倹約令につぐ倹約令をだします。当然の処置でしょうが、じっさいに、どのような物についてどのように倹約するように命令を出したのかの度重なる倹約令の古文書が残されています。そのような古文書を読むと、そこの暮らし向きがだんだんにわかってきます。幕府を構成する各藩がこのような状態では、幕府が破綻をきざすのではないかと心配するのは当然のことです。
 藩主隆明は、幕府に対して、意見を述べます。その古文書も残されています。こんにち、150年たってそれからの歴史を顧みると、その古文書が不思議なくらいしごくまっとうな見解であることが読み取れます。若くして、すごい藩主だなと思わされます。当然幕府は無視します。
 藩主は幼少のときより、父徳川斉昭より水戸学を中心とした学問を受けてもおり、朝廷に対する思いには強いものがありました。ところが、藩は幕府によって自分に任されたものであり、幕末の、薩長土肥の幕府への叛乱とその征伐への命によって、朝廷と幕府の板ばさみで苦しむことになるのです。もちろん、のちの新政府に謝罪の文書を差し出すのですが、その古文書も残されていて、その血のにじむような自分たちの板ばさみによる苦しみが伝わってきます。
 その板ばさみとなったために一番苦しい決断をせざるをえなかったときが、この幕府による長州征伐(四境戦争)での敗北です。当時、藩主武聰は病気で臥せており直接指揮もできないまま大村益次郎の率いる長州軍に大敗します。長州軍の浜田占領に、家臣は進退に苦慮し、広島に置かれていた幕府の総督府や、藩主の兄である鳥取藩や岡山藩の藩主の意見を聞き、幕府軍として長州の進撃の様子も物音で家臣に尋ねることでしかできない状態の藩主をかばって、家臣は藩主の妻子を逃がし、「少し立ち退いていていただきます」と言って藩主を舟で逃がしておいて、城に火を放つのです。そして、藩の飛び地であった鶴田に逃れ、美作国鶴田藩として再興します。
 鶴田藩となってからの運命、そして浜田城の運命、藩主の運命も、節目節目の古文書の原文及び訳文によってていねいに詳しく知ることができます。藩主の運命は藩で暮らす人々の生活とも密接な関係にあるということを古文書をとおして切々と感じられる作品でした。
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