続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』5
2016/05/03(Tue)
アラン・ローゼン著・西川盛雄訳 5「停車場で」における芸術的技巧 を読みました。
 ハーンの著書はすべて英文で書かれています。この再考の著者が英語を母語とする人ということで、広島弁しか読み書きできないわたくしとしては、違った意味の期待がありました。なにが違うのか自分でもまったくわからないままおおきな期待がありました。
 読んでいくと期待にあまるある再考でした。
 ラフカディオ・ハーンの作品はほとんど小品です。ハーンはこれら小品の数々をまとめて、『知られざる日本の面影』(明治27年9月)・『東の国から』(明治28年9月)・『心』(明治29年3月)と出版しています。
 わたしは、ハーンについて顕彰させていただくようになって、ハーンの訳本を少し手にするようになったのですが、これらの作品は、その3冊や、その他の作品から抽出された作品がランダムに掲載されています。ハーンが出版したときのままに1冊ずつ、順番どおりに訳された本ではありません。
 ハーンが1冊の本を出版するに当たって、これらの小品を本全体の構成を考えて、苦心惨憺の配慮をしてならべた芸術作品として、読むことがなかったのです。
 しかし、ここでは、この三作をそれぞれ一つずつの作品と考えたときの、その作品の最初に当てた小品、『知られざる日本の面影』の「極東第一日」、『東の国から』の「夏の日の夢」、そして『心』の「停車場で」について、その作品のそれぞれの著書全体に果たす役割について再考されていました。
 読み終わってしばらくすると作品の内容を忘れることの多い昨今ですが、この3作だけは、確かに鮮明に覚えています。この3冊の冒頭の作品3作を思い起こせば、ハーンが日本へ来たときの感慨、そこになじんでいくことによってハーンの日本への感じ方の特徴である美しいおもいが幻想的になっていくこと、そして、もっと日本を深い部分で知ることによって日本の常人の心の底を流れる倫理観にふれていくということが読み取れます。
 そしてこの3作品を最初に持ってくることによる効果について、『知られざる日本の面影』の「極東第一日」は、《作品全体の構成とおなじ動きと円弧を描いている。》と述べています。冒頭では、さっそうと人力車に乗った新参者の新鮮な目で見たり聞いたりして、心躍らせるのですが、最後は、その日一日が終わり、旅の語り部が深い夢のなかに入り込んでくるのです。最後の作品「さよなら」では、松江での現実は結局のところ過去の思い出になり、最初の「極東第一日」の最後と符合するのです。
同じことが『東の国から』の巻頭の作品「夏の日の夢」にもいえて、『心』では、停車場の雑踏の中で、警察官が同僚の警察官をころした殺人犯に、その警察官の息子に合わせ、「坊ちゃん、これがね、四年前にあなたのお父さんを殺した男ですぞ。・・・」と言って聞かせる作品によって、日本人のわが子に対する潜在的な愛情を描いていて、この文化的文脈が『心』全体を流れているということでした。
 こういった感想が持てるのは、やはり英語を母語とする研究者ならではとの思いでした。
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