『広島原爆前後の手記 黒い蝶』
2016/05/08(Sun)
 松岡 鶴次 著 『広島原爆前後の手記 黒い蝶』 を読みました。
 昨日、5月7日に、第189回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、風呂先生が紹介された本です。表紙の黒い蝶の絵を見て、これは買い求めたいととっさに思い、風呂先生にお願いすると、先にご自分の本を譲ってくださいました。
 2日前の5月5日に白木山に上ったとき、黒い蝶を見かけました。山頂で、見かけ、あっ!!黒い蝶だ!と思った一瞬のことでした。そのあと、しばらくして、同行者の方からいただいた、アンパンを食べていると、そのパンに、違う色の蝶が止まり、アンを食べました。10人全体がいただいて食べていたのに、わたしの手のパンを食べます。蝶に「ちゃんと羽柴さんにお礼を言うのよ!」と言い聞かせたりしました。みんなも寄ってきたりしましたが、どこかにひらひら飛んでいっても必ずまた帰ってきてわたしのパンを食べます。下山のために、リュックを背負ったりするので、わたしが残りを食べおわってしまっても、不思議とずっとわたしの周りをひらひらとびまわっていました。黒い蝶のことも気になったのですが黒い蝶は、あれきり姿を現しませんでした。それがこの表紙にいるような気がしたのでした。
 この著書の手記は、昭和20年、1月15日から、9月20日までの著者の日記でした。この時期、日本中がどのような爆撃を受けていたのか、そして広島は・・・。そのときの米軍の攻撃の状況と著者の恐怖が伝わってきます。
 まず、病院の器械を作ったり修理をする会社を22歳で立ち上げ、長い間昼夜の別もなく働き続けてきた自身の工場が建物疎開の命令を受けます。さらに、老母と身重の妻と子ども二人とともに妻の実家の縁で島根県との県界近くの村に疎開します。自分は、学徒動員のために疎開できなかった娘の千代への心配や家業のために、63キロはなれたその疎開先と、広島市内とを行ったり来たりの生活です。
 もともと肺門リンパ腺・肋間神経痛で兵役はまぬがれ、在郷軍人としての自分は体が丈夫ではありません。疲れるとすぐ熱が出てしまいます。広島では、がんばって建てた富士見町の自宅に疎開後、頼まれて娘と一緒に友人の親戚の娘さんも住んでいました。この広島に一人で残っている千代は先妻との子どものひとりでした。7歳のとき母親が病気で入院し、8歳で死に別れます。物心ついたときには戦争中で、幸薄い娘です。そのことに、ことのほか思いをかける親心が伝わってきます。原爆投下のときは、ちょうど広島へ自転車で向う途中でした。あまりの衝撃に、身も塊り、引き返します。7日の朝、出かけ、可部の妹の住まいに立ち寄ってみると、助かった千代がいました。翌日1日休んで、9日に千代を可部に置いてなおも空襲警報のけたたましい広島に、自宅にいた友人の娘さんや工場のようすを見に行きます。娘さんは亡くなっていました。翌日、可部から奥へ48キロの道を8月の太陽に照らされながら千代とふたり自転車で疎開地へ帰っていきます。そのとき、可部の街外れから一羽の黒い蝶が翌日にわたってもずっとついてくるのがとても不思議でした。
 元気になった娘もつかの間のこと、終戦になって9月14日、原爆症で亡くなりました。
 戦争の悲惨さが、リアルタイムで伝わってきて、平和を願う思いが、形而上ではなく、自分のなかで生身の願いとなってゆくのを感じました。
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コメント
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 一羽の蝶には心があるような不思議な感じですね。手に持っていたパンを食べるとはめずらしい光景に思えました。
著者のリアルな体験を、あかね様も追体験したような怖さと辛さが心を奪っていたかに思えました。
風呂先生の大きな存在、優しさも常々感じておりました。良い学びの会に属されているのが解ります。人は一人で生きてはいないということを改めて痛感致します。
 先輩、後輩、連れ合い、多くの子ども達、みな自分を育てて下さる方々ですね。
2016/05/10 09:44  | URL | みどり #-[ 編集]
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風呂先生はやさしく、どんな人も分け隔てなく大切にされる方です。いつまでもお元気でいて欲しいと願ってやみません。
 白木山での何度も手元に止まって無心で食べるというか吸い上げるチョウの光景は、不思議というほかありませんでした。
 昨日は、クロアゲハチョウを図鑑で調べてみました。なんと、オスはチョウ道を作って飛ぶとありました。他のチョウの説明も少し読んでみましたが、チョウ道をつくるというような記述はありませんでした。さらに帰ってインターネットでクロアゲハチョウを検索してみると、やっとひとつ、オスは暗がりと明るいところの境目にチョウ道をつくるとありました。ですからこの本に書かれてあったことが理解できるような気がしました。それにしても、原爆が落ちたことは後になって分かることですが、巨大な化学兵器から、どうにか助かったとしても、物心ついたときから戦争が日常で、このときでさえ、低く轟音を立てて飛ぶ米軍機におびえながらの道行です。自分を必死で守ろうとしてくれている父親とふたりの自転車での道行で、ついてくるチョウの為にも休息をとった親子、わたしになついたように見えたチョウのこともあり、本当にこのチョウがふたりにとって、亡き妻、亡き母のようにも思え目頭を熱くしました。
2016/05/10 19:55  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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