『天平の甍』
2016/05/30(Mon)
 井上靖 著 『天平の甍』 を読みました。
 1969年に偕成社より出版された、ジュニア版日本文学名作選のなかの一冊です。ジュニア版ということで、あらゆる漢字に振り仮名が打ってあり、難しいことばについては綿密な説明があります。
 先日、松岡 鶴次著『広島原爆前後の手記 黒い蝶』を読んで、井上靖にもおなじタイトルの作品があったような気がして、探していて、ないままに、この『天平の甍』を読むことにしたのでした。
 この作品は、聖武天皇の天平5年(733年)4月の終わりに出航した第9次遣唐使船で中国にわたった留学僧が、20年ののち鑑真を日本に連れ帰るまでの、消息を書いたものです。
 遣唐使船は4隻で出航するのですが、舟はそれぞれ、近江、丹波、播磨、安芸の4カ国で建造されました。大使は従四位上多治比広成(たじひのひろなり)で、副使は従五位下中臣名代(なかとみのなしろ)で、総勢五百八十余名です。 遣唐使派遣の目的は宗教的、文化的なもので、留学生、留学僧を送って、近代国家の成立を早めるということです。中大兄皇子によって律令国家として第一歩を踏み出してまだ90年、仏教が伝来してから180年、政治も文化もいまだ混沌としていて先進国の唐から吸収しなければならいことがおおかったのです。仏教に帰入した者の守るべき規範は何一つ定まっておらず、課役を免れるために争って出家した百姓たちが自誓受戒して、簡単な仏法を受ける程度で放埓に流れ出し、取り締まられていない現状に苦慮しておりました。留学僧は、日本でいまだ備わっていないこれらの戒律を施工するために伝戒の師を請じてくることもおおきな課題のひとつでした。
 留学僧として、平城京の大安寺から僧普照、もとは紀州の僧で玄郎、興福寺の僧栄叡、筑紫の僧侶で戒融の4名でした。この小説は、これら20代の若い僧たちと、その前から渡っていた業行を含めて5人の遣唐留学僧の生き方を簡潔に描き、それから鑑真とともに帰朝するまでの20年間の艱難辛苦を支えた思いを描いています。この部分では、自分の生き方についても考えさせられました。
 『天平の甍』を読み始めた先週のはじめ、裏山で秋末さんに出会いました。秋末さんは、そのとき読んでいるという藤原鎌足の話をしてくださいました。わたしが、実はいま鎌足の弟垂目の孫が副大使として乗った遣唐使船の『天平の甍』を読んでいますというと、次に出会ったとき、なんと2004年10月13日の「遣唐留学生の墓誌初発見 西安」という新聞記事の、切抜きを持ってきて渡してくださいました。
 734年、玄宗皇帝がその年の1月に亡くなった井真成という留学生の死を惜しんで日本の貴族に相当する官位を送ったことがしるされ、中国が「日本」という国名を認めていたことを示す最古の実物資料となるということでした。734年は『天平の甍』では、一行が洛陽に入った年でした。そして、この井真成と一緒に入唐した阿倍仲麻呂と洛陽で出会ったのでした。
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