「海賊から水軍へ」
2016/08/25(Thu)
 請川洋一著 「海賊から水軍へ」を読みました。
 『郷土史紀行』60号のなかの紀行文です。

 と書き始めて、半ばまで書きすすんだあと、この暑さで脳みそが茹だってきたのか、炒められてきたのか、いつもの駄文さえ書けなくなり、枕もとの1号~60号までの『郷土史紀行』を手当たり次第に数記事読んでは眠り、生き延びるという生活を送っておりました。いまPCに向って書きかけの文章を読んでいると、因島や、呉市警固屋や下蒲刈、竹原市の忠海、愛媛県伯方町などの海賊城や水軍城をめぐった紀行文を詳細に書いています。あとで、どれと言うことなしに読んだ紀行文でも他のいくつかの海賊や水軍の記事にであい、常に今月6日の「広島ハーンの会」で海軍について学習したことが頭の片隅にあったことで充実した読書になったと思います。
 無人島でない限り、小さい島、あるいは島国は、いつ他の人たちに占領されるかわかりません。島にあるもので工夫して、警固し、自分達の生活を守らなければなりません。海の幸を得るための造船技術も高めなければいけません。人口が増加すればそれだけでは間に合わず、中央の政権が納税を課すような時代になると、それらの運搬船への海賊が横行するようになり、それを警固する為の役割を課せられたりする水軍にもなります。海賊になったり警固する役になったりしながら、我が物顔で海を支配していましたが、そのうち、国取り合戦が始まるようになると、海軍の役割を担うようになり、「海を制するものが陸を制する」のことばどおり、海軍の力が試されるようになります。しかし、1588年「海上賊船禁止令」により、豊臣政権の統一した水軍としてのみの存続となり、さらに江戸時代、外様大名が、江戸から遠方に追いやられ、造船に制限がかけられ、水軍は陸に上げられてゆきます。船大工などが、宮大工などに転身してゆく過程を眺めることもできました。
 戦いのない江戸時代の事情については、司馬遼太郎の『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛の物語で読み知っているばかりです。
 いよいよ「広島ハーンの会」のときに学習した明治時代に入ると、天下統一のため功績のあった塩飽水軍が、塩飽領1250石を与えられ江戸時代も存続を認められて、物資の輸送、長崎奉行の送迎など幕府方の御用船方を務め、さらに高い造船技術で千石船を建造したり、北前船の運航で巨万の富を得たりしていて、幕末以降、創設された海軍の軍艦の乗組員となって活躍しました。アメリカ留学中に米西戦争の観戦をした秋山真之は、ここでは、海戦の作戦をたてるに際して、村上水軍の戦法を参考にしたと述べられています。
 54号では、秋山真之についての記事がありました。この記事では真之の晩年について知りたいとの長年の思いが実現しました。
享年49歳で逝った真之は、仲良しだった正岡子規の16年後の大正7年2月4日盲腸炎を患ったことが原因で亡くなったということでした。
 「辞世というほどのものではないが・・・・」といって、「不生不滅明けて烏の三羽かな」の句を吟じ、二階の障子を開け放つように頼み、「ああこれでさっぱりした。今何時だ?」といって静かに目を閉じたと言うことでした。烏の三羽とは、志なかばで亡くなった清水則遠と正岡子規、真之であるといわれているそうです。
 ほんとになんだかさっぱりしていて気持ちよく亡くなったようで、「真之のこんな死もありホトトギス」でした。
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