続『ラフカディオ・ハーン再考  100年後の熊本から』10
2016/08/27(Sat)
 里見 繁美著 続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』10 「ハーンとローエル」 を読みました。
 ハーンが来日の決意をしたその原因のひとつにあげられることのあるパーシブル・ローエルの著書から、三つの引用文があります。
 『極東の魂』より、《それと反対に、仏教は厭世主義の信仰である。現世は悲しみの鎖にすぎないと。それは説く。日を重ねることは悪を重ねることだ。我々を書き立てる欲望は、我々の苦しみの根源である。われわれは、この現世の姿を自分自身だと思っているが、それは誤りである。この現世の姿は総て幻影であり、我々は幻影のとりことなっているのだ。この個性・自己意識は残酷な欺瞞であり、罠である。その幻影の背後にある属性をもたない真の魂―従って、それは苦悩することのない偉大な没個性的自然の魂と不可分のものであるが―を認識せよ。そうすれば、そのとき初めて、我々は至福の涅槃の静寂の中に幸福を見出すことができるのだ。》
 読んであまりにも仏教の真髄を端的に述べてあるのにびっくりしました。夫に読んで聞かせると、没個性的なのが他力で個性的なのが自力だと解説を加えてくれます。ここでは没個性的を中心に考えていくことによる仏教を述べています。
偶然、この作品を読む直前に、今月のハーンの会での資料で、1月と2月の資料にある高成玲子氏の「ラフカディオ・ハーンと日本美術」を再読するよう進めてくださっていたので、再読したばかりでした。この中にある、『歴代名画記』の「画の六法を論ず」を解説して、《すなわち絵画制作の根源は、外面的な写実にあるのではなく、描写対象の骨組みを決定するほどの妙味ある筆法によって本質に迫ることにあり、そうなれば、おのずとそこに気韻が生動するということである。》や、ハーンの「日本美術におけるの顔について」などで、没個性的な表現に言及している、《個性を類型に、人格を人間性に、細部を情緒に従属させる。・・・・日本の絵師は、形態のかげにかくれている『自然』の意図を・・・・一般性を描いてみせる。・・・・その伝統的画法が個性を類型に従属させることにあるから・・・真実のひとつの形態を描いている・・・・そのことが、ふつうの西洋の絵画が表現できる以上のものを表す。》といったことに、宗教的な深みさえ感じてしまいました。
 このローエルの日本人の信仰する仏教への捕らえ方を平成の時代に読むと、なんだか私達は、仏教書や仏教美術や仏教儀式に触れすぎて、ずいぶん厚化粧の仏教にふれて、素顔の仏教を見失いかけていたことに気づかされます。
 パーシブル・ローエルと、もうひとりハーンが思想的なバックボーンとしていたというハーバート・スペンサーの当時の、あるいはそれ以前の日本人・日本文明への言及については、とても興味深く読むことができました。西欧文明を取り入れて江戸時代の政治形態を解体して、新しく帝国主義化していく過程を、日本人が後年、たとえば司馬遼太郎が小説などに描いて見せた日本人や日本文明ととてもダブって見えるからです。ちょっとした時代のズレや切り口で、あのようにもこのようにも見えていたのではないかと思えます。
 しかし、それらを分析して記述したものへの人気の傾向について、理性的な分析の仕方よりも、多少欠点が多くても感情的な分析の描写力のほうに依存すると述べているのが、印象的でした。
 ローエルのもうひとつの引用文『能登』と、ハーンの「夏の日の夢」の類似もとても興味深く読めました。
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