『形見の声』
2016/09/22(Thu)
 石牟礼道子 著 『形見の声』 を読みました。
 1989年から熊本日日新聞や同心・週刊金曜日・出版ダイジェスト・神戸新聞・現代・群集・西日本新聞・掲載されたものなどのエッセイ集でした。

 「賽の河原」という段に、《テレビに出てくるごくふつうの顔からなんと品格が失われたことだろう。かぎりなくおふざけタレントの表情や仕草に近づいて、いかにしたら人より目立つか、目立ちくらべに血道をあげている。茶の間では幼児がその真似をするのをまわりも喜んで、ひっそりしたあえかな身ぶりなどは、庶民の日常からすっかり失われてしまった。落ちつきのない世の中になるには、相応のわけがあるにちがいない。いうべからざる不安が日常の底に大口を開けていて、その縁におびき寄せられる者の如く、大群衆が阿呆踊りにかかっている、という風に見える。》 とあります。私も定年退職をして落ち着いて世の中の人を見ていると、ヒステリー状態に見えて首をかしげるようにな場面に出くわすことがあり、その奥にある不安への向き合い方に疑問を感じていた矢先でしたので、やはり、との思いがいたしました。

 作品はずいぶん長い時間をかけて読みました。最後の「形見の声」では読み終わると、沈黙するしかないといった感じがします。

 長い年月水俣病患者の人たちにかかわって、「和解」ということばから、人権について考えるところがあります。
 《私、自分のテーマはいったい何だろうといつも思いますが、・・・・風土の魂と申しますか、その声を書きたいのですね。忘れられていく日本人の魂の形見というものがずっと気になっておりまして。・・・・》
 という石牟礼道子氏、
 《「昔の人たち」と魂が行き来しているような、そういう世界の人間のありようは、人権という言葉では、くくれないのですね。人間一人を取り出してくるのに便利なようではございますけれども、“人権”ではどうも出生の奥の世界が見えてまいりません。》
 この文脈からは、いまどきの人権という言葉が、風土から浮いて見えてきます。
 「和解」とは、なにとなにがどう「和解」できるのかもわかりません。
 《日本の近代というのを考えますとき、非常にはっきりしてきたことは、知識人の意識の分裂、・・・》と最初に書かれてあったことに符合してきます。

 「忘れられていく日本人にある風土の魂の形見」ということでは、著者と私では少し年代の違うこともありますし、育った家の土地も職業も引き継がないと知ったそのときから、風土の魂という形見を受け取らず、将来を想像することもできぬまま本を読んでは遊びほうけていた自分へのうかつさに気づかされてばかりでした。
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