吉野ヶ里遺跡に行ってきました
2016/11/21(Mon)
 10日の朝、4時過ぎに家を出発して、夫婦2人で九州への旅に出かけました。そして、19日の夜帰ってきました。
旅行のブログへの記録は、たまってしまった家事の合間に、覚えている最後のほうから順に、印象に残ったものを記録できたらと思っています。
 18日、朝一番に行ったのが吉野ヶ里遺跡でした。吉野ヶ里遺跡はなんといっても、日本の歴史の最初をかたる文献「魏志倭人伝」の世界にせまることのできる遺跡ですから、夫がいちばん行きたがっていたところでした。
 資料館内に、邪馬台国はどこにあったと思いますか?自分の思うところにシールを 貼って下さいということで、日本地図がかかげてあります。
 若いころ古田武彦氏の説得力ある書物に親しんでいた私はためらうことなく北九州地方にシールを貼りました。
 吉野ヶ里の発見については、無頓着に過ごしてしまっていたので、資料館の説明書きを一生懸命読みました。映像も見せていただきました。 
 発掘が始まったのが平成元年ですから、発掘がすすみ状況がわかりはじめ、このような公開展示にいたる道のりを考えると、平成元年というより、吉野ヶ里元年と年号を変えたほうがいいのではないかと思えるほどでした。
 資料館を出ると広大な敷地に紀元前300年くらいから、起源200年くらいまでの、空間が広がってきます。
 「下戸」と呼ばれる一般の人々が住んでいた区域で、竪穴住居や高床倉庫など27棟の建物が復元されている所は「南のムラ」と名づけられています。「倉と市」と名づけられた区域は、吉野ヶ里の「クニ」の交易の中心地と考えられています。南内郭と名づけられたところでは、物見やぐら4棟や、王たちの家、煮炊き屋など、王たちの居住空間も含め20棟の建物が復元されています。吉野ヶ里集落の中で最も重要で、神聖な場所とされている北の内郭と名づけられたところでは、まつりごとが行われていたところと考えられ、巨大な祭殿をはじめ、9棟の建物が復元されています。ずっときれいに刈り込んだ野原が続きますが、ところどころ直径1メートル半くらいにこんもりと盛り上がっているところがあります。これは甕棺墓列といって全長300メートルにわたって約500基からなるスケールの墓列が中央の墓道とともに再現されています。そのむこうにりっぱな施設がありますが、北墳丘墓と名づけられた約2100年前の歴代の王やそれに近い身分の人が埋葬された特別な墓で、発掘された状況が見えるようにその上に立てられたものです。その1基には青銅の剣とガラスの管玉が、7基には青銅の剣が副葬されていました。
 甕棺への埋葬の様子を映像で見たのですが、なんとも心地よさそうで、以後、夜布団のなかに入るとき、甕棺に入る気分で安らかに眠ります。
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コメント
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 佳き旅にお出かけだったのですね。吉野ヶ里遺跡に行く夢が実現でき、さぞ素晴らしい旅だったことと思います。
此れからの紀行文を楽しみにしております。
2016/11/22 13:51  | URL | #-[ 編集]
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 8月いっぱいでどうにか仕事を辞めることができましたので、やっとのんびり旅ができました。
 旅の思い出が写真だけにならないように、少しでもがんばって記録できたらと願っています。
2016/11/22 23:14  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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