『魏志倭人伝』
2016/12/22(Thu)
 監修 高島忠平・編集 折尾 学・発行 吉野ヶ里公園管理センター
 平成26年3月31日(校訂)第4刷
 表紙には
  『三国志』
   『魏書東夷伝倭人の条』
     通称『魏志倭人伝』
        読下し文・注釈

とあり、2000字あまりの『魏志倭人伝』の原文と、読下し文、注釈とが、わかりやすく書かれていて、手軽に読めるようになっています。
 
 吉野ヶ里遺跡の高台に立って、見渡すかぎりの青い空、そして温暖な風、赤い花そして白い花と植え分けたいちめんに広がるソバ畑や、「スダジイ」などと書かれた樹木の通路を歩き、あるいは木製の鳥を乗せた鳥居をくぐりながら、魏(220年 - 265年)の歴史書に物語られたころの日本をおぼろげながら回想しました。
 それは、邪馬台国はどこにあったのか?という究極の関心事をはなれた、自分のなかにも残っていて消えることのない生命のルーツに出会ったような懐かしさでした。
 九州旅行から帰って、忙しい日々をすごし、活字から遠ざかっていました。いま、吉野ヶ里遺跡でいただいた数枚のパンフレットにまぎれたいたこの冊子で、あらためて、邪馬台国はどこにあったのか?という関心もいだきながら、全文25ページを丁寧に読んでいきました。
 邪馬台国はどこにあったのか?という問いには、
 《人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。舊百余国。・・・・對海国・・・至一大国・・・至末盧国・・・至奴国・・・至不彌・・・》まず、戦国期(前403~221)の『山海経』に朝鮮半島の南部に倭があって倭は燕に所属したとある。山島は九州とする意見が有力。對海国は対馬である。至一大国は現在の壱岐市。末盧国は現在の松浦(佐賀県東松浦郡・唐津市)。至奴国は昔、那の大津といわれた博多、現在の福岡市博多区から春日市一帯。至不彌国は現在の宇美(福岡県糟屋郡宇美)から宗像郡と、飯塚氏(旧福岡県穂波郡)に当てる説がある。
 このように、異説も取り上げながら、決めるにはむずかしいもの、あるいは異説の矛盾点について述べ、邪馬台国の位置は吉野ヶ里??への思いも否定せず、『魏志倭人伝』からの文字や、発掘資料、『古事記』、『日本書紀』、国々の『風土記』などの資料による注釈を読みながら、考えを深めるヒントに胸をときめかしました。
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