『宇佐八幡宮』
2016/12/24(Sat)
 三橋 健監修 週刊【日本の神社】№17『宇佐八幡宮』を読みました。
 この冊子は、2014年2月18日№1『出雲大社』~2016年6月7日№121『総索引号』までを夫が購入したものの1冊です。
 いままで読んだことがなかったのですが、邪馬台国はどこにあったのかと考えていると、夫が、いろんな説があるなかで、一説には卑弥呼の墓が宇佐八幡宮の境内のなかにあったともいわれているといいましたので、今日はそのことにふれてないかとの思いで読みました。
 読み終わってみると、邪馬台国は奈良にあり、その邪馬台国は北九州地方にも強力な勢力のあることもわかっていて、それから身を守るために宇佐八幡宮は奈良のヤマト政権にとっての出城の役割を果たしたと読み取れます。
それは、
 《ヤマトの九州支配と宇佐神宮の地理的意味
 ・・・・古代の人々にとって、ここは流通と戦略の拠点だった。まず、沿岸部は北部九州とヤマトをつなぐ海の道の「止まり木」の役割がある。これは、誰にでもわかる地勢上の優位性だ。
そしてもう一つ、大切なことがある。それは、ヤマト(東)が九州(西)を支配するために、宇佐神宮のある豊国(豊前、豊後)は、なくてはならない場所だったのだ。・・・・。
古代日本をめぐる知られざる実相
 纏向遺跡(奈良県桜井市)の発掘調査によってヤマト建国の詳細が明らかになり、意外なこともわかってきた。弥生時代の最先端地域だった北九州は、ヤマト建国にはほとんど影響を及ぼしていなかったのだ。それどころか、ヤマトや出雲から北部九州に人が流れ込んでいた。『日本書紀』は、「ヤマト建国は神武天皇の東征によって成し遂げられた」と主張し、邪馬台国北部九州論者は「九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」と主張するが、雲行きが怪しくなってきた。「文物は西から東に流れる」という常識までも、覆ってしまったのだ。・・・・日田の盆地は天然の要害で、西からの攻撃には頗る強かった。その反面東側から攻められるともろく、また日田から川を下れば一気に筑紫平野を襲うことが出来た。北部九州勢力にとって、日田は厄介な存在だった。・・・・日田市の小迫辻原遺跡は、ヤマト建国と同時代の政治と宗教に特化された環濠集落だ。この遺跡の特殊性は、機内や山陰から土器が持ち込まれていたことだ。しかも、ヤマトの纏向遺跡と平行している。ここに「東側の勢力が拠点を築いた」ことは間違いない。》と容赦ない。
 纏向遺跡の語るものを知らないと・・・・。ということでした。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
<<お墓参り | メイン | 『次郎と正子』>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/930-525b0b32

| メイン |