『白洲正子自伝』
2016/12/31(Sat)
 白洲正子著 『白洲正子自伝』 を読みました。
 「ヨーロッパの旅」のなかの文章です。
 ≪吉田茂さんが大使になってロンドンへ来られたので、英国にいる間は大使館に泊めていただくようになった。
 ・・・・ロンドンの大使館でお世話になっている間に、吉田さんは白洲次郎という人間をよく見て理解されたに違いない。何事もなければそのままのいい友達であったであろうが、第二次世界大戦が終了した後、進駐軍との交渉の矢面に立つ重要人物として次郎を起用されたのは炯眼(ケイガン)であったと思う。
 ・・・・イギリス人は「トーク・ショップ」といって、パーティーなどで政治や経済の話をサロンに持ち込むことは悪趣味とされていた。そういう点では吉田さんも次郎も完全に英国的教養を身につけており、そこのところが現代とは違っていた。だから男性には「クラブ」というものが必要で、そこは女人禁制の「男の城」であったから、大っぴらに政治や商売の話でも女の噂でもすることができた。ただし、メムバーになるのは大変むつかしく、よほどのヒキがなければ大臣や大使だって無視されてしまう。もちろんピンからキリまであって、一流のクラブに入っていればそれだけで排他的なイギリス人も信用した。日本では外交官というと未だに華やかな職業のように聞こえるが、そういうところまで食いこまなければ本当の情報など得ることはできず、そんなものが存在することさえ若い外交官は知らないであろう。
 ・・・東大卒の秀才というだけでは、せまい日本の国内では通用しても外国では二束三文の値打もないのである。≫
 吉田茂は、明治41年、大正9年につづいて、このときの昭和11年は3度目のロンドン勤務でした。
 そのためか、このときにはすでに、フリーメイソンであったのではないかという文面ですが、うなずけます。
 またほかのところでは、、≪外国を多少でも知っているものには、戦争は負けるに決まっていたし、大本営発表で有頂天になっている人たちの夢をさましてやりたかった。…≫と述べています。
 白洲次郎についてのウィキペディアのなかで、彼が吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたことが述べられていますが、早めに疎開をして、身を守り、敗戦による終結についても考えざるを得なかったことがうかがえます。
 いままで、何冊か白洲正子の本を読んできたように思うのですが、民芸について語られたものがほとんどでした。
 しかし、この本は大正・昭和史としても格別充実した資料が満載でした。

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