『小泉八雲新考』 ㈢
2017/01/31(Tue)
 拾遺「Folkloristとしての小泉八雲」のつづき
 ハーンが日本に来朝した明治23年は、ゴムの『民族学のハンドブック』が出版された記念の年だそうです。世界の民族学史上でも、民族学が芽吹き始めてまだ十年にも満たなかったというのに、ハーンが早くこれに着目していたことは、たくさんの関連本を読んでいたことでも知れます。
 このあたりから話題は、世界の民族学の状況と日本の民族学の状況の解説に入っています。
昨年、九州の椎葉村を訪ねました。そのとき、椎葉村では、明治41年に柳田国男がこの村を訪ねて調査したことから、民族学そのものが発生し、椎葉村は柳田国男による民族学発祥の地ですとの説明を受けました。
 日本の民族学がどのように発展していったのかについてここでは、明治17年人類学会発足。しかしこれは民族学とは違うと述べてあります。明治26年日本土俗学会発足。(これは人類学会の支会のようなもの)ハーンの作業が始めて後の柳田国男の取り組みと同じようなものになっているとのことです。しかし、目はあまり見えない、日本語が読めないしあまり聞き取れない、といったことからのハーンの限界についてもしっかり述べられています。
 さらに、ハーン亡き後、ハーンの作品が逆輸入される形で日本語に翻訳した人は、民独学的な見地を知らず、また、ハーンがそのような見地から書いていることを知らなかったために、同じ言葉を訳すときにも民俗学的用語を文学的に訳したりして、その本意が伝えられていないことを例を挙げて残念がっています。
 もちろん私も、ハーンの作品に対して、文学的な解釈はできないまでもなんとなく文学的に読み、その再話に、廃れていく昔話を思い起こさせてはくれたけれどとの思いにとどまった作品もありました。しかし、それは、私が彼の英文での原文が読めないからかもしれないとの思いでいました。そこに、世界のほかの地域にはない民俗学的な意味を持たせることはありませんでした。決して高校生のころ三角寛の『山窩の記憶』を読んだときのような読み方はしませんでした。
 最後に≪しかし、ハーンの著述は今日われわれが呼ぶような意味での民族学の文献とは言えないのである。・・・・彼が筆を執った時代は、日本のみならず世界的にも、民族学はまだようやく嬰児の時代であった。したがってヘルンがもし書き残してくれなかったならば遂にそのまま消滅したであろうところの多くの事象が、幸いとして文字となりしかも世界的な文献となって後世に残るに至ったということである。ヘルンをあえてフォークロリストと私がこの一文の中で呼んだのは、このような意味においてであった。≫ と結んであります。
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