『明恵 夢を生きる』 ㈡
2017/02/07(Tue)
 河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』の続きです。
 河合隼雄は、明恵の『夢記』を湯川秀樹に知らされ、梅原猛にも研究するように言われていたのに、仏教のことがわからなくて長い間取り組めなかったといっています。実際仏教用語などのわからないところは、協力者にお寺に行って聞いてもらったりもしたといっています。
 読む私たちはどうでしょうか。
 やはり仏教のことがよくわかりません。
 それに夢について、心理学的にわかるかというとそうでもありません。

 明恵は自分の見た夢を解釈して「案じて云はく、・・・・」と、述べています。それから後にくる言葉を法華経の教義に関係ある言葉として理解しなければわからないのです。ずっと以前これを読んだときに、解釈の内容もわからないのに、以後「案じて云く、・・・・」と口癖になっていたことを思い出し赤面するやらおかしいやらの思いです。

 できるだけわかりやすく書いてある、井筒俊彦の華厳哲学に関する論を基にして、難しい言葉だけれど、ここであえて象徴的な言葉、①事法界、②理法界、③理事無碍法界、④事事無碍法界があることを知って、その4つの法界を理解することが、「そこでは一々の小さな塵のなかに仏の国土が安定しており、一々の塵のなかから仏の雲が湧き起ってあまねく一切をおおい包み、一切を護り念じている。一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、その他一切の塵のなかにおいてもまた同様である。」ということになると理解するのです。

 取り上げられた塵は「有力」であるが取り上げられなかった塵は「無力」である。「有力」なものを見る時、仏や菩薩には「無力」なものも両方が見えるのです。このようにいかなるものをも「有力」「無力」両方の側面から見ることができて、華厳は、あらゆるものが「深い三昧のうちにある」、というのだと述べられています。

 華厳について学んでいることと、華厳の境地を味わうことは、切り離せないものとは思いますが、ハーンは、亡くなる前の日の夢で、死の予告を受けたと理解されています。彼は、むしろ目が悪かったがために、近くに感じられるのに、ざっとぼやけておおまかにしか見えないもの、机にしがみついてレンズを通して見えたことのほかに、ほかの人にはどのように見えていたかを常に類推し、本当はどうなのかへの探究心による目を持って生きていたために、あらゆるものが「深い三昧のうちにある」ことを感じるのにより近くにいたのかもしれないと思えてきます。
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