「米良、椎葉の山奥で」
2017/02/13(Mon)
 宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代 巴監修 『残酷物語二』のなかの「米良、椎葉の山奥で」を読みました。
 昨年秋の暮れ、九州への旅で椎葉村を訪ねました。その時、なぜ平家の落人が椎葉村にのがれてきたのかという疑問がわきました。
 この記録には、「口碑によると」としてそれへの説明がありました。
 ≪壇ノ浦で滅びた人たちがこの山郷を知りここへおちてきたのは、肥後の菊池氏の心からなる援助であったといわれる。もともと菊池氏はその祖先を大宰府弐藤原隆家に発していた。寛仁3年(907)刀伊の賊の来寇にあたってよく防御し、そのまま九州に定住した。・・・源平合戦のときには平氏にぞくし菊池隆直は一ノ谷以来よく奮戦して平家に尽くした。しかし、ついに平家滅亡の悲運にあい、故郷に帰って家を固め身をかためて、滅亡をまぬかれた。この菊池の背後に、五箇も椎葉もかくまわれていたのである。≫と書かれています。寛仁3年(907)は、1019年のまちがいだろうと思います。この菊池氏についての興亡が椎葉村に住む落人の行く末にも多大に影響することもあって、詳しく書かれてあり、直前に読んだラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ろくろ首」にでてくるヒーローの僧侶が、もと菊池氏の家来の侍だったのでつい興味もわいて熱心に読めました。
その、平家の落人たちが、山深い世界で息をひそめて暮らしてゆくなかで、中央勢力の流れにも影響を受けつつ、内部抗争によっ てつらい歴史をたどったときのことが書かれています。
このように記録しようと思うと、口碑ということのせいなのか、時代の流れと話がかみ合わないと思えたりして、何度か読み返して、自分なりに、土地の人が聞き伝えてきたことの本意をくみ取ったのですが自信がありません。そして作者が、あるいはのちの人が、米良地方と比較して、やりかたによっては、ここまで内戦をしなくても暮して行けたのではないかということの結論に到達することで、ご朱印状や権威、太閤検地への恐怖が、世間に知られない山の奥地で暮らす人たちそれぞれへどのような影響を与えたのかの一例を知ることになります。
 椎葉村では、南に伊東氏、島津氏、西に相良氏などがいる中で、那須祐貞の4人の子ども左近と九郎右衛門は小崎、弾正は向山、将監は神門にいてあい助けて山中を統一していて椎葉三人衆と呼ばれており、なかでもご朱印状を取り付けるほどの豪胆な弾正に、検知に協力をさせようとの中央の思惑もありながら、その息子久太郎の代になると、重い課税を課して住民に恨みをかうようになり、悪巧みにあって父子ともに殺され、それ以後検知のための役人に対応できるものがおらず、中央への反発とみられ多くの人の命が奪われていきました。それ以後、結局幕府の直轄領となったということでした。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
<<「おしどり」 | メイン | 『河合隼雄の幸福論』>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/959-4a8cad08

| メイン |