『おはなしおはなし』 ㈡
2017/02/17(Fri)
 どのエッセイひとつ読んでもなんだかすごいなと感じさせられます。と先に書きました。㈠では、最初のエッセイだけで終わってしまったので、それでは寂しい気がしてもう二つ。

 著者について、どうして京大の理学部を出た人が心理学などをやっているのだろうと不思議に思っていました。
「ただ座っていること」では、それへの疑問に答えてくれます。卒業後数学の教師をしていたが、教師自身もなにか学んでいないと堕落してしまうといわれてやはり京大の大学院(旧制)で心理学を学んだことが書かれています。こんな立派な話ではありませんが、じつは私も就職してから臨床心理学の聴講を始めていました。ところが講義に出てみると先生はほとんど出張で、教室では幼児教育学科の学生が、順にテキストを読むようにといわれていて、まじめに端から順に一人ずつ立って読み上げるのです。途中読めない漢字に行き当たると全員で年上の私を見るのです。仕方なく読みをいうといった状況で講義時間が終わります。1年で行かなくなってしまったのですが、さすが後に明恵に傾倒するようになる人だけあって、著者はそのようなことやいろいろ困難はあったでしょうが世界的な臨床心理学者になられたのです。数学教師としては、一生懸命指導したが特別生徒の学力がついたというのでもなかったそうで、いま思えば「ただ座っていること」のほうが大事だったというのが主旨でした。

 「公案としての子ども」では、兵庫教育大学大学院での講義の話でした。多くは実際に現場で働いている人たちの学生へ向けての講義だったそうで、深い講義が成立する場面での話です。
 子どもがすぐにバレるような盗みを働いたことを、禅のように「公案」として、考えることによって、子どもは自分の悩みを誰かに気づいてほしい、誰かに聞いてもらいたいが話す勇気がないので、無意識のうちにすぐにバレるような盗みを働いたのではと気づき、そっと呼んで子どもの話をきいてみると、誰も知らない悩みを打ち明けその話を聞いてやることで子どもは気持ちが軽くなってゆき元気を取り戻す機会に恵まれるかもしれない。
 禅の場合常識的な答えをいうと老師に「喝」とやられる。大人の常識的な判断ではなく深くさまざまな方面から考えてゆく。意識的にやったことだとすれば、常識的に考えての原因が考えられるかもしれない。しかし、無意識のうちにやってしまったとしたらどうだろう。
 子どもの問題行動を「考案」のように深く考えてみては、という話が聞けるとは・・・。
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