『ある英語教師の思い出』 ㈡
2017/03/12(Sun)
 稲垣巌が京都の桃山中学に勤務していた、昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまでのあいだの、大きな出来事のひとつに、昭和9年9月21日の室戸台風上陸がありました。
 この室戸台風では、死者・行方不明者3036人という大被害をもたらしました。京都府下では、倒壊27校、それによる死者70余名(内職員4名)、桃山中学校でも、死傷者はなかったものの、木造2階建ての1棟(18教室)が全壊するという甚大な被害をこうむり、そのほか平屋建もみな半壊、備品もほとんど使い物にならない被害を受けました。
 午前8時10分が1時間目の授業開始時間。全員が着席して、授業が開始されました。午前8時25分頃が最大暴威だったため、以後の15分間の避難が、生死を分けます。その、15分間の避難行動について、3者の記事があります。ひとつは、光家元正教諭が『昭和9年9月21日の風害記念号』のなかに、「風害について」という題で学園の惨事を詳細に記録されているもの。それに対して、当時中学生だった編著者の小野木重治氏の体験とそれへの思い。稲垣巌の桃山中学校の「金城会」発行の『桃山』第28号(昭和9年12月28日)のなかの、「死線上に立つ」と題しての記事です。
 この3つの記録を読むことで、15分後には全壊することになる校舎で、いつもどおり、整然と授業を受けようとしていた500人の生徒と教職員のそれからの避難のようすを、かなり立体的に把握することができます。
 若くて元気な男の子、高学年はもう立派な青年とはいえ、恐怖心の強弱は人それぞれで、巌は
 ≪・・・いきなりしがみついてきた傍らの一生徒を反射的に抱きしめながら私は青い血潮が一時に頭に上がるような気持ちを味わった。一同は畏怖に圧倒されて、群像のように一瞬沈黙したが、その顔は悉く灰のように白ちゃけていた。「講堂が壊れたんだろうねえ」誰やらがへしゃげた声で呟くと、熱に浮かされたような別の声が早口で答えた。「いや違うよ。第二教館が倒れたんだ。此処から見えたよ」・・・≫
 次の指示が来ないので、恐怖におびえながら、じっと指示を待つみんなのつぶされたような思いが伝わってきます。
 稲垣巌のこの「死線上に立つ」の避難時の臨場感あふれた描写は、八雲の「生き神様」とおなじように、自然災害に対する教訓として、あらためて身の引き締まるような思いで読みました。
 このような災害のときでも、平行して、日常的な苦しみや悲しみもあります。
 稲垣巌は、この災害の起こった9年の1月にたまたま京都に来た医者である義弟の(妻のミドリの弟)種市良春によって癌を発見され自宅で手術をうけたとあります。6月には、妻のミドリが、不和から青森の実家に子どもを引き連れて帰っていきました。さらに、9月にも京大で手術を受けていました。夫婦ともに癌による生命への不安からくる精神の不安定さに、義弟の理解が深かったことが、その後の話からうかがい知ることができるのが救いでした。

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