『無意識の構造』 (1)
2017/03/14(Tue)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を読みました。1977年中央公論の新書版481の発行です。
 読み終えるのに、とても難しくて、時間がかかっています。
 何のために読んでいるのかわからなくなるようなときもあったりして、気をとりなおしてまた読み始めるといった具合です。
 なかに、小泉八雲の「勝五郎の再生」の、再生譚に関連した興味深い記述があるので、引用しておきます。
  ≪「私」というものは不思議なものである。誰もがまるで自明のこととして「私」という言葉を用いているが、われわれはどれほど「私」を知っているだろうか。インドの説話に次のような話がある。・・・・・・・・この話は「私」ということの不可解さをうまく言い表している。ここでは体のことになっているが、たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない。しかし、そのようにして、自分にそなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに「私」というものが残るのだろうか。それは、らっきょうのように皮をはいでゆくと、ついに実が残らないものではなかろうか。われわれが精神病の人たちの話をきくと、ときに、彼らは自分と同じ人間がこの世にもう一人存在していると主張したり、自分は××の生まれかわりであると確信したりする。 これをわれわれは異常なことと感じる。自分というものはこの世に唯一無二の存在であり、過去にも未来にも同じものは存在しないと確信しているのである。ここに「確信」という言葉を用いたが、実際これは積極的に「確証」することが難しいことである。われわれは確証なしに、これらのことをむしろ自明のこととして受け入れている。
  ここに「われわれ」という主語を漠然とした形で用いたが、実のところ、この「われわれ」には相当限定を加えなければならない。というのは、現在においても、輪廻転生を信ずる民族や集団も相当存在するからである。われわれ日本人にしても、そうとうの長期にわたって輪廻の思想を受け入れてきたのである。
 近代人は合理的科学的な思想に基礎をおき、輪廻の考えを拒否している。それに基づく数々の迷信を笑いものにすることもできる。しかし、近代人にとって、「私」はどこから来てどこへ行くのか、というのは厄介な問題である。近代の先端をゆくアメリカにおいて、「私」の根(ルーツ)を探し求めることに異常な関心がむけられているのも、まことに興味深い。「ルーツ」はあくまで外的な根を探すことに焦点づけられているが、そこに、「私」という存在の基礎を知ろうとする内面的な問いかけが象徴的にはたらいていると考えられる。・・・・≫
 この本では、≪自分は××の生まれかわりであると確信したりする。≫ということをどう結論付けているかを知ろうとすると、そのことだけを頭において読んでいかないと、それなりの結論を見出せない気がします。以後注視して読み進みます。
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