『明恵上人』
2017/05/08(Mon)
 白洲正子著 『明恵上人 愛蔵版』 を読みました。
 新潮社より1999年発行のものです。
 愛蔵版というほどあって、表紙カバー・本文写真とも美しく価値あるものです。あとがき・明恵上人参考年譜につづいて、白洲正子・河合隼雄の対談 「明恵の夢をひらく」があります。 
 明恵は親鸞と同じ年に生まれたのですが、その違いについて、親鸞は『善人なほもて往生を研ぐ。いはんや悪人をや』(歎異抄)といっているのに対して、『悪人なほ隠れたる徳あり。況や一善の人に於いてをや』(明恵上人伝記)と比較し、また、教団を作った人と、ただひたすら『弟子持て仕立てたがらんよりは、仏果に至るまでは我心をぞ仕立つべき』(遺訓)といった言葉の比較こそが明恵上人の特徴をよくあらわしています。明恵を慕ってくる人を弟子とは言わず同行と言っているあたりは仏陀とも共通する部分でもあります。
 また。栄西に印可をうけ、栄西から跡継ぎをといわれたのを断りますが、以後お互い認め合い、和して同ぜずという関係は、他の人々との距離関係とも共通しています。明恵の仏弟子としての姿勢には、むしろ後に現れる道元の「・・・つつしんで宗称することなかれ、仏法に五家ありといふことなかれ」(正法眼蔵)に近いとあります。
 この道元のところを読んでいると、『にごれる代に登用せらるるは、無道の人なり。にごれる世に登用せられざるは、有道なり。』ということが延べられており、驚きます。今世界各国が核兵器の威力を高める中、テロが蔓延しつつあり、にごっているときに、落ちついて人の道をという政治家を望むのは無理で、戦国時代、織田信長が現れたようにヤンキーで非道な人間がいったんまとめない限り、どうにもならないものなのだろうかと思わされます。さらにそのことをダメ押しするごとく、『治世の法は、上み天子より下も庶民に至るまで、各々皆な其の官に居する者は其の業を修す。其の人にあらずして、其の官に居するを、乱天の事と云ふ』とまで述べています。ここでは、このような道元の特質は明恵の影響があったことを感じさせ、明恵の「あるべきようは」との一致を伝えます。二人とも「和して同ぜず」という姿勢によって、より仏陀に近づこうとしたように思えます。
 しかし、道元は永平寺を本山とし、「曹洞宗」を立てるというようなことになったため、道元の仏法は彼一人のものに終わったと延べていて、以外にこういった人の生き方が、心ならずもこのような結末を迎えることがよくあることもうなずけます。このあたりも仏陀が、インストラクターであったと説明したNHK100de名著の『ブッダ』の姿と一致して見えます。
 明恵の業績にこれといったものはないけれどといいつつ、時の執権北条泰時との関係を、白洲正子流にとらえているところは、やっとこのふたりの関係に触れてあるものに出会えたとの思いで読ませていただきました。あとにある河合隼雄との対談集で河合隼雄は明恵上人の「あるべきようは」を基に北条泰時の作った貞永式目は明治になるまで生き続けたと述べています。

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