『明恵 夢を生きる』 ㈡
2017/02/07(Tue)
 河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』の続きです。
 河合隼雄は、明恵の『夢記』を湯川秀樹に知らされ、梅原猛にも研究するように言われていたのに、仏教のことがわからなくて長い間取り組めなかったといっています。実際仏教用語などのわからないところは、協力者にお寺に行って聞いてもらったりもしたといっています。
 読む私たちはどうでしょうか。
 やはり仏教のことがよくわかりません。
 それに夢について、心理学的にわかるかというとそうでもありません。

 明恵は自分の見た夢を解釈して「案じて云はく、・・・・」と、述べています。それから後にくる言葉を法華経の教義に関係ある言葉として理解しなければわからないのです。ずっと以前これを読んだときに、解釈の内容もわからないのに、以後「案じて云く、・・・・」と口癖になっていたことを思い出し赤面するやらおかしいやらの思いです。

 できるだけわかりやすく書いてある、井筒俊彦の華厳哲学に関する論を基にして、難しい言葉だけれど、ここであえて象徴的な言葉、①事法界、②理法界、③理事無碍法界、④事事無碍法界があることを知って、その4つの法界を理解することが、「そこでは一々の小さな塵のなかに仏の国土が安定しており、一々の塵のなかから仏の雲が湧き起ってあまねく一切をおおい包み、一切を護り念じている。一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、その他一切の塵のなかにおいてもまた同様である。」ということになると理解するのです。

 取り上げられた塵は「有力」であるが取り上げられなかった塵は「無力」である。「有力」なものを見る時、仏や菩薩には「無力」なものも両方が見えるのです。このようにいかなるものをも「有力」「無力」両方の側面から見ることができて、華厳は、あらゆるものが「深い三昧のうちにある」、というのだと述べられています。

 華厳について学んでいることと、華厳の境地を味わうことは、切り離せないものとは思いますが、ハーンは、亡くなる前の日の夢で、死の予告を受けたと理解されています。彼は、むしろ目が悪かったがために、近くに感じられるのに、ざっとぼやけておおまかにしか見えないもの、机にしがみついてレンズを通して見えたことのほかに、ほかの人にはどのように見えていたかを常に類推し、本当はどうなのかへの探究心による目を持って生きていたために、あらゆるものが「深い三昧のうちにある」ことを感じるのにより近くにいたのかもしれないと思えてきます。
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『明恵 夢を生きる』 ㈠
2017/02/06(Mon)
 河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』を読みました。
 先に読んだ、高木大幹氏の『ハーンの面影』の 第17章の講演「ハーンを慕って六十三年」の「神秘な次元…夢の場合」の中でこの本のことが取り上げられています。
 以前買って読んだことのある本でしたので、読み合わせて考えることもできる一冊です
 ≪ハーンは正に、夢見る人でありまして、彼のエッセイにも、再話文学にも夢に関するものが多く、東大での講義「小説における超自然的な物の価値」はハーン文学の理解に大切なものですが、その中で「霊を信じないとしたら、どうすればよいか。夢を活用することだ。怪奇文学の芸術的要素はみんな夢の中にある。夢こそ、文学の素材の宝庫だ」と申し、ハーンがわれわれに理解して欲しいのは、超自然の力がどういうものかを、些かなりとも見せてくれるのは夢であるということなのであります。≫から始まり、ハーンが亡くなる前の夜に見た夢が、ユングの言う予知夢と思え、さらに実際自分が経験すると不思議を通り越して驚く他なく、ハーンの怪談奇談が身近に感じられると結んであります。
 明恵が19歳から亡くなる直前まで夢の記録をしたためたことや、彼の動植物に示す優しさとに、ハーンを結びつけてあります。

 河合隼雄は、本書の「仏僧と夢」のなかで、当時、仏教において、夢を前兆として考える態度がよくあり、『阿難七夢経』をはじめ物語、日記、仏教説話などに、夢に関する書物が多く、夢は重要な役割を占めており、夢想・観想の功徳が解かれていると述べます。そのことが、のちの世までも高僧と言われた人に、夢で神のお告げを受けたなどという云い伝えがよくあることなのだとうなずけます。

 理想と現実が大きく違うことは日常茶飯事です。その違いに、いかに妥協して生きていくか。あるいは、その違いの苦しさにどこかに救いを求めるか。あるいは我慢をし、精進して乗り越えていくか。
仏道を求めて、入門してみたけれど、ほかの入門者は堕落しきっていて幻滅を感じる。よい師もいない。そんな現実に立ち向かったとき、いっしょに堕落してゆくか、仏にすがって生きていこうとするのか、自分で、常に仏に問うて、仏の声を聞き取って、その道を歩む努力をするのか道は様々です。
 法然や親鸞は仏にすがる教えを説きます。苦しみ多い民衆の中に広く受け入れられ、信者は精神的にも強くなり、一向一揆などおこし時の政権に否定されていきます。
 そんな中で、明恵は常に夢想し観想し、精進の道を説いてゆきます。
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「ハル」
2017/02/05(Sun)
 小泉八雲著 平井呈一訳 「ハル」 を読みました。
 『心』の中に収録されている作品です。
 高木大幹氏の『ハーンの面影』の 第1章ハーンはなぜ小泉となったのか、の「カーカップ氏とハーン」のなかで、ハーンの帰化への影響としてのセツの特性を語るのにこの作品のことが記されています。
 ≪ハルは典型的な優しい、感じやすい日本の女で、この「ハル」というエッセイは、洗練された女の性格の素晴らしい研究だといい、幾つかの点で、ハルはハーン自身の日本人妻、節子を私に想いださせるのだと書いている。ハルの最後はまことに哀れで、セツのそれとは全く違うが、ハルの心、ハルの所業には、セツのそれらに通う面が確かにあり、カーカップ氏もそこに日本の女性の特質、そしてセツの美点を見出したのであろうと思われる。≫とあるので、そういった話だったかと今一度読み返しました。
 全くそのようですと私も思いました。
 とくに、先月、寺井敏夫著者『小説 小泉セツ』を読んで、小説ではありますが、セツがハーンと結婚する前に結婚していた人とのその生活を、そして夫に家を出て行かれて、夫の行き先の大阪に迎えに行った時のセツのことを読んでいる者にとっては、全くその通りでございますとしか言えません。

 よく躾けられてその通りに育った女、ハルについて書かれてあるのに加えて、よく躾けられて育った男についても書かれています。
 ≪日本の良家では、夫たるものが妻に向かって、口に邪険をいうなどということはまずないことだ。そういうことは、下品な、はしたないことと考えられているのである。気性のおだやかな、教育のある人なら、女房に小言をいう場合にも、ごく穏やかなことばで言う。日本の作法からすると、普通の礼儀からいっても、男らしい男はみなこういう態度をとる。また、これがいちばん無難な態度でもあるのである。というのは、嗜みもあり、悟りも早い婦人なら、粗暴なあしらいには、とうてい長く服してはいないし、また、すこし向こうばしの強い女なら、亭主が一時の腹立ちまぎれで、かっとなって言ったことばのために、淵川へ身をさえなげかねない。女房にそんな自害でもされようものなら、亭主としては一生の名折れである。≫

 引用の趣旨からはそれますが、丸山学氏の言われるように、これはれっきとした民俗学的な報告書と読み取ることができます。どういった女性像、男性像を当時の日本人が尊いとしたのかよくわかったし、自害まではしないものの、現在でもあまり変わっていない気がします。
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『ハーンの面影』 ㈡
2017/02/04(Sat)
 この、第1章の「ハーンはなぜ小泉となったのか」は、ハーンがどうして帰化したのかということにこだわっての考察です。
 18章まであるなかで、第1章にあてられ、一番おおくページ数がさかれてあります。

 ハーンは、この帰化ということについての気持ちを、いろんな人への書簡に書いて送っています。
 ≪帰化の理由については、あまりにも当然すぎるほど当然なことになっていますが、いまあらためてその疑問に光を当てることによって、帰化の理由の本筋と脇筋との全貌が一つの全体として立ち現れると思う≫とあります。

まず、当時欧米人が日本に帰化することへのデメリットについてまとめて記載があるのは便利です。
 1、英国民が英国から与えられる強力な保護を失う。
 2、領事館税よりはるかに高い税金を払わなければならない。
 3、外国人としての俸給で日本政府に雇われるのは困難となる。
 4、英国人としての旅券を失えば自由に好きなところへ行けなくなる。
 5、たとえ、日本国籍を得ても、完全に、日本人に慣れきれない場合には、日本で孤独となる。(1894年10月23日、西田千太郎宛の手紙で、「私は決して日本人になれないし、日本人全体から真の同情を見出し得ない事実を認めざるを得ません」とハーンは書いている)
 これを読むと、ハーンにとってよいことはないといっていいのですが、ハーンが時々、臣民という言葉を口にしています。当時でいえば、明治天皇の臣民か英国の臣民かということになるのでしょうか。
 ここで、注目されるのが、昨年(2016年)11月25日の山陰新聞に、愛知学院大学の竹下修子教授によるハーンの帰化に関する記事です。
 ≪竹下教授によると、八雲以前にもあった英国人男性と日本人女性との入夫婚姻について、英国は「婚姻によって臣民としての義務を脱却しようとするなら到底許しがたい」としており、国籍離脱を認めていなかった。島根県が八雲の「日本人タルノ分限」取得の手続きを英国領事に照会。96年に代理領事が八雲に返答した未公開書簡が池田美術館(新潟県南魚沼市)に所蔵されており、「日本側だけの手続きで完了する」と記されていた。≫
 著者の高木大幹氏はそのことは知らずに亡くなられたのですが、ハーンのみぞ知るこの書類がどのような経路で池田美術館に所蔵されたものかはわかりませんが、これによると、ハーンは両国民としての利益と義務を背負うことになるのですが、このあたり今後の研究を待ちたいところです。
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『文学論』の「序」
2017/02/03(Fri)
 夏目漱石著 岩波の漱石全集18巻『文学論』の「序」を読みました。
 これも、先に読んだ高木大幹氏の第1章のなかの「夏目漱石とハーン」の中に一部引用されている作品です。

 『私の個人主義』は講演記録のため、かなり読みやすかったのですが、この序文は短いとはいえ読みにくく、旧字体で小さな文字を以前は興味に任せてよく読んだものだと今更関心をします。引用文は
 ≪学ぶに余暇なしとは言わず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。・・・・・倫敦に来てさえ此の不安の念を解く事が出来ぬなら、官命を帯びて遠く海を渡れる主意の立つべき所以なし。≫と、やはり、漱石の不安についての引用です。『私の個人主義』と同じように不安を述べた文章ですが、その講演が大正3年11月だったのに比べ、その前の明治40年に出版された本ですので、「欺かれたるがごとき不安」とか「遠く海を渡れる主意の立つべき所以なし」などと、少し強い口調になっています。しかもその前に、
 ≪余は漢籍に於てさほど根底ある学力に非ず、然も余は充分之を味ひ得るものと自信す。≫とまで書いています。
そして苦しんだ挙句
 ≪余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。・・・・・余は心理的に文学は如何なる必要にあって、此世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを極めんと誓へり。≫と十年をかけてやり遂げようと自らに誓います。

 当時、味の素の発明者池田菊苗氏がヨーロッパにいて、ヨーロッパにいる日本人をよく訪ねていたことは知られています。
 その池田菊苗が明治34年5月5日にロンドンにいる漱石のところへ訪ねてきて、2か月近く一緒に暮らしました。その池田菊苗が漱石のこういった決断に影響を与えたことを小宮豊隆が、この『文学論』の解説で述べています。
 漱石は池田菊苗と議論をしたり、散歩をしたりするなかで、彼が理学者でありながら大いなる哲学者であることを認めざるを得なかったようです。その会話の中から、心理学や社会学の角度からの文学の根本的な作用についても分析をすることを思いついたことを感じます。しかし、  ≪のみならず文学の講義としてはあまりに理路に傾き過ぎて、純文学の区域を離れたるの感あり。≫と以後の講義への工夫を重ねるところから、彼の文学論が進展していくようです。


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『私の個人主義』
2017/02/02(Thu)
 夏目漱石著 『私の個人主義』を読みました。
 岩波の漱石全集第32巻に収録されています。
 大正3年11月25日学習院輔仁会での講演記録です。
 先に読んだ高木大幹氏の第1章のなかの「夏目漱石とハーン」の中に一部引用されている作品です。漱石は文学とはいったい何かわからない
 ≪私は斯うした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、又、同様の不安を胸の奥に畳んで遂に外国迄渡ったのであります。≫という部分が引用されているのです。引用のあと、
 ≪まことに奇妙なことであるが、ハーン(八雲)の一生も、それは不安の連続と言えるもので、漱石とは別の意味で、「生」とのきびしい闘いで貫かれたのであった。≫と著者は結んでいます。
 漱石は本文で、さらにこの不安の中のロンドンで、
 ≪私は初めて文学とは、どんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う道はないのだと悟ったのです≫と、意を強くします。しかし、生活に追われて、
 ≪私は私の企てた事業を半途で中止してしまいました。私の著した文学論はその記念というよりもむしろ失敗の亡骸です。しかも奇形児の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものです。しかしながら、自己本位というその時得た私の考えは依然として続いています。≫と続けます。

 この部分を読んで、中学生の時、国語のテストで、語学的なことはいいとして、感想を採点するやり方にどうにも納得がいかず、国語が嫌いになった事を思い出しました。自分は単純な人間なので、答えの決まっている数学や物理のほうがすっきりして納得がいきました。短期大学部の国文へ入る時の面接試験で、「なぜ、国文へ?」と聞かれたとき、「自分は卒業さえできれば何でもよかったのですが、本が好きでいつも読んでいましたので、これら読んだ本が、体系づけられるのではないかと思ったのです。」と今思えばとんでもないことを言ったのですが、そばにおられた岩佐先生がいきなり、「そう!大切なことだ!」といわれ、とりあえず合格できたかも・・。と思ったのを思い出します。

 そのような文学への話のあと、漱石は講演を聞く学生たちが生まれもよく裕福な家庭の子弟であることを前提に、こういった人たちの個人主義、を標榜することへの心構えについて時間をかけて説いています。それについては、英国人の権力に対する義務の追行のバランスに敬意を表することを述べています。これは現今、我が国や隣国の韓国や北朝鮮、アメリカの首長にも大いに考えてもらいたいと思ったことでした。

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『ハーンの面影』  ㈠
2017/02/01(Wed)
 高木大幹著 『ハーンの面影』 を読みました。
 著者の高木大幹の本は少し読んでいるように思いますが、先ごろ読んだ、冊子『広島ラフカディオ・ハーンの会々誌』の「ラフカディオ・ハーンの会」ニュース№9(2001・5・12発行)に風呂先生が、奈良在住の高木大幹先生からも、4月20日の書簡で「盆踊り」に関するアドバイスをいただいたこととその内容が記されていて、とても身近に感じるようになりました。

 序文の前にハーンの写真の裏側に、著者の写真も大きく掲載されていました。それが遺影のように感じられましたので、調べて見ると、2003年1月14日に亡くなり、この本はその翌年2004年10月12日に八尾米一氏によって発行されていることがわかりました。
 八尾米一氏がタイトルを『ハーンの面影』としたことについて、ハーンが日本を愛してその面影を慕ったように高木大幹先生がハーンを慕っていて、ハーンのように真摯に生きられたからだとありました。
 第7章ハーンの夢のなかの、「ハーンの死の予感」につづく「夢と死」・「夢は枯野を」まで読み進み、ふと感じて、最後の初出一覧をめくってみるとこの第7章と、第13章修羅と微塵Ⅳ・第18章ラフカディオ・ハーン小伝は書き下ろしになっていることがわかり、先にこの章を読み、高木氏の晩年、ハーンの一生とその晩年に触れられている部分を、感無量の思いで読みました。この、第13章修羅と微塵Ⅳは、修羅と微塵Ⅰから通読したとき、厳しい仏教の修行のあとのすっと体から力を抜いているようなイメージがあります。

 ハーンは墓地を好みました。私も墓地に行くのが好きです。ずっと若い、中学生のころからでしょうか学校の帰りに途中から通学路をそれて、少し山を登ると私の先祖のお墓もある墓地の裏側にたどり着きます。そこから、向かいの緑の山、東西に伸びる県道や学校や役場、農作業にいそしむ村人が見えました。長じては、山道で出会う見知らぬ墓地で、それぞれのお墓で亡くなられた年月や享年をていねいに見るようになりました。最近は、内藤丈草にならって、「かげろうや 塚より外に いるばかり」とほとんどお仲間入りしている気分でもあります。目を瞑ると、宵闇の中、薄明かりに浮かぶ下市の「盆踊り」の輪が、走馬灯のようにゆっくりと回ってゆくようでもあります。

 高木大幹氏は1995年の講演でにハーンを慕って63年、と述べられています。2003年1月に亡くなられるまでのおおよそ70年の八雲に対する思いの集大成、充分に時間をかけて読ませていただきました。

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『小泉八雲新考』 ㈢
2017/01/31(Tue)
 拾遺「Folkloristとしての小泉八雲」のつづき
 ハーンが日本に来朝した明治23年は、ゴムの『民族学のハンドブック』が出版された記念の年だそうです。世界の民族学史上でも、民族学が芽吹き始めてまだ十年にも満たなかったというのに、ハーンが早くこれに着目していたことは、たくさんの関連本を読んでいたことでも知れます。
 このあたりから話題は、世界の民族学の状況と日本の民族学の状況の解説に入っています。
昨年、九州の椎葉村を訪ねました。そのとき、椎葉村では、明治41年に柳田国男がこの村を訪ねて調査したことから、民族学そのものが発生し、椎葉村は柳田国男による民族学発祥の地ですとの説明を受けました。
 日本の民族学がどのように発展していったのかについてここでは、明治17年人類学会発足。しかしこれは民族学とは違うと述べてあります。明治26年日本土俗学会発足。(これは人類学会の支会のようなもの)ハーンの作業が始めて後の柳田国男の取り組みと同じようなものになっているとのことです。しかし、目はあまり見えない、日本語が読めないしあまり聞き取れない、といったことからのハーンの限界についてもしっかり述べられています。
 さらに、ハーン亡き後、ハーンの作品が逆輸入される形で日本語に翻訳した人は、民独学的な見地を知らず、また、ハーンがそのような見地から書いていることを知らなかったために、同じ言葉を訳すときにも民俗学的用語を文学的に訳したりして、その本意が伝えられていないことを例を挙げて残念がっています。
 もちろん私も、ハーンの作品に対して、文学的な解釈はできないまでもなんとなく文学的に読み、その再話に、廃れていく昔話を思い起こさせてはくれたけれどとの思いにとどまった作品もありました。しかし、それは、私が彼の英文での原文が読めないからかもしれないとの思いでいました。そこに、世界のほかの地域にはない民俗学的な意味を持たせることはありませんでした。決して高校生のころ三角寛の『山窩の記憶』を読んだときのような読み方はしませんでした。
 最後に≪しかし、ハーンの著述は今日われわれが呼ぶような意味での民族学の文献とは言えないのである。・・・・彼が筆を執った時代は、日本のみならず世界的にも、民族学はまだようやく嬰児の時代であった。したがってヘルンがもし書き残してくれなかったならば遂にそのまま消滅したであろうところの多くの事象が、幸いとして文字となりしかも世界的な文献となって後世に残るに至ったということである。ヘルンをあえてフォークロリストと私がこの一文の中で呼んだのは、このような意味においてであった。≫ と結んであります。
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『小泉八雲新考』 ㈡
2017/01/30(Mon)
拾遺「Folkloristとしての小泉八雲」
                ※ Folklorist 民俗学者
                ※ Folk-lore 民族学・民間伝承

 第6章までで初版の『小泉八雲新考』は終わり、そのあと、拾遺として、この「Folkloristとしての小泉八雲」と、「ヘルンの人間発見」(講演筆録)が収録されています。

 その「Folkloristとしての小泉八雲」は、今まで私が、ラフカディオ・ハーンを読むにあたって、まったく抜けていた観点へのアプローチがありました。その抜けていた観点とは、彼の作品が欧米諸国の読者へ向けての民族学てきなレポートであるという側面でした。
 1893年のヘンドリックへの手紙から、ラフカディオ・ハーンが、日本でなしとげようとした思いに、チェンバレンと日本民族についての本を書くことであったことが述べられています。
一般庶民の日常生活に仲間入りして日本人の思想で書くために考えたテーマは「こどもの生活と遊戯」・「家庭の生活と信仰」・「伝説と迷信」・「婦人の生活」・「古い民謡」・「言語習慣」でした。
 もともと、日本に来るについて、彼を送り出したハーバー社の目的が日本が、議会を開設し、軍事・産業などの面で着々実績をあげて急速に近代国家になって行くその実態を知りたかったとしても、ハーンが書きたいものは、マルティニークの延長線上の民族の特性の報告でした。
 なので、ハーンの日本での最初の本のほとんど全部が民族採訪の記録であると見て差し支えないことを述べ、さらに、それを内容的に累型192項目すべて以下のごとくていねいに分類してあります。
 1、民間信仰に関するもの(30項目)
 2、神道に関するもの(17項目)
 3、仏教に関するもの(35項目)
 4、動物に関するもの(31項目)
 5、植物に関するもの(15項目
 6、怪異に関するもの(14項目)
 7、職業に関するもの(9項目)
 8、年中行事に関するもの(9項目)
 9、人事に関するもの(11項目)
10、物品に関するもの
11、その他(6項目)
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『小泉八雲新考』 ㈠
2017/01/29(Sun)
 丸山学/木下順二監修『小泉八雲新考』を読みました。
 講談社より学術文庫によって1996年11月10日第一刷発行されたものです。
 丸山学による序文は昭和11年11月20日になっています。最後の解説は「小泉八雲と丸山学先生」と題して、木下順二が書いていますので、これらから読みました。
 ここでは丸山学と木下順二との関係が明らかになりました。木下順二が1928年のとき旧制熊本中学校1年生で、初めて英語を学んだときの先生が、丸山学先生だったそうです。
 丸山学は、そのあと広島で学び広島高等師範学校の教授になり、小泉八雲の研究をするにあたり熊本にいる木下順二に協力を依頼し、この『小泉八雲新考』を出版した次の年、兵役に取られました。
 1945年に広島に復員してきたとき、「学友と学問のための資料の一切を失った私は広島でまたふたたび同じ仕事を第一歩からはじめる勇気を持てなかった。私は父祖の地に帰ることにした・・・。」と言ったというところでは、いろんな意味で悲しい思いがしました。

第1章 熊本時代の作品とその素材 先に読んだ「赤い婚礼」は、≪当時の新聞に取材したというが、その出所を私はまだ  発見していない。≫と書かれていました。
第2章 熊本時代の私生活 ここでは、日清戦争のさなか、官立学校廃止論などが取りざたされ、宮仕えの不安を痛感し、著作での 生活にむかっており、2千円の貯蓄があったということに驚きました。
第3章 教員室で机を並べていた佐久間先生と不仲になっていじめられていたという記述には初めてであいました。その丁寧ないきさつと、つらい思いをしたことが知れました。
第4章 『停車場にて』などハーンの作品についての考察ですが、≪ハーンの作品を文芸作品として見る立場に加えて、同時にそのうちの相当多くのものは日本人についての民俗学的研究とみなすことができる≫とのべ、ハーンの作品はその読者を英・米 人を念頭において書いており、今のように日本人にも読まれるとは思っていなかったことを強調しています。第一書房版全集の日本語訳を見て、翻訳に当たって、当時民俗学・民族学・土俗学といった学的内容に理解のない時代であったがために、それへの不満があることが述べられています。
第5章 ヘルン踏査 昭和10・11年ですら、松江・熊本・神戸・東京・焼津と踏査を重ねてみて、第五高等中学校のうらの小峰の高台にある小峰墓地を訪ね、≪あらゆるヘルンに関する遺跡の中で、この墓地ほど完全に旧態を保っているところはないと私は 確信する。≫と述べられています。

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「赤い婚礼」
2017/01/28(Sat)
 小泉八雲著 平川祐弘編 『日本の心』のなかの仙北谷晃一訳 「赤い婚礼」を読みました。
 先に読んだ『広島ラフかディオ・ハーンの会々誌』第1号の、ニュース№10(2001・6・2発行)で、「赤い婚礼」が原作になった米国映画『おはぎ』のことを知り、ニュース№14(2001・11・3発行)で、さらに風呂先生が徳島大学での日本英文学会中国四国支部大会で「赤い婚礼」の発表をされたことを知りました。
 平川祐弘編 『日本の心』は早いうちに読んでいるのですが、どんな話だったか覚えていなかったためさっそく読みました。
 文庫本で64ページから81ページまでの短い話です。短い話なのですが、今日は一日友達と「空き家を復活させる事業」の日で忙しかったせいか、書き手の話の間が長く感じられて、なんだか読むのに時間がかかったような錯覚を覚えました。
 友達との活動が積雪のため空き家の雪かきになったため、「『おはぎ』という映画観たことある?」から始まって、原作である「赤い婚礼」の内容について話して聞かせたので、おそらくもう忘れないでいられるのではないかと思っています。なぜ「赤い婚礼」というタイトルにしたのかわからないのよねというと、婚礼が心中で、線路が二人の赤い血で染まったからではないの。と答えてくれました。この人は、非常に色彩感覚のいい人で、暮れに蝋梅と南天を使って空き家の玄関に活けておいた生け花も、久しぶりに玄関を入るなり、目が覚めるように美しくて、すがすがしい気持ちになったのでした。
 ハーンはこの作品の、最初、恋が成就しないがための自殺について、東洋と西洋の違いについて述べています。
そして最後に、人間の普遍的な祈り、これは「苦の宗教」とでも名づけるべきものではなかろうかと述べています。
ハーンも路上生活などを余儀なくされたり、あるいは結婚していた人に出て行かれて自殺を考えたことがあることを、どこかで何度か読みました。そのような苦し紛れの自殺ではなく、苦しみの中にあって、死によって魂が浄化されていくがごときの死というものがあるということを日本に来てハーンは知っていったのではないでしょうか。
そして、平民気質よりも武士気質にそれが強いことも。 
 ≪「これからは二世も、三世も、私はあなたの妻、あなたは私の夫、太郎様」
太郎は何も言うことができなかった。≫では、商人の出の太郎を、武家の血を受け継ぐおよしがうながし、ここにきて、はじめて太郎は、自分が二人のこれからの人生を切り開くべきではなかったかと気づいたのかもしれないとの余韻も感じさせます。
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『広島ラフかディオ・ハーンの会々誌』第1号 
2017/01/27(Fri)
 平成26年(2014)1月31日発行の『広島ラフかディオ・ハーンの会々誌』第1号 を読みました。

 1月の『広島ラフかディオ・ハーンの会』のとき、風呂先生から、口頭で「ハーンに出会って」といったようなものを書いてくださいとの告示がありました。
 『広島ラフかディオ・ハーンの会』が200回を迎えるについての記念誌かなにかの原稿だと勝手に了解しました。
大雪と突然の寒波ですっかりそのことを忘れておりましたが、ふと思い出し、「アブナイ!アブナイ!」と、初めて参加したときの資料を見ていたら、その中に、このピンクの冊子を見つけました。「これは、これは、」と開いてみると、なんと、いろいろのところに線を引いて横の空白に※印がついています。一生懸命読んだ形跡です。理解できないものにしるしをつける癖があるのです。いまでは会員として普通によく使う言葉もそのときはわからなくてみんな※印です。印はだんだん減ってゆきますから、とにかくぱらぱら読みすすんだのかもしれません。読んではいたけど、何のことやらわからずに読んだことにしてしまったのでしょう。

 ≪「会誌」第1号発刊にあたって≫ を読んで、この冊子のできた目的といきさつがわかってきました。そして、次の2ページでこの会の結成会が開かれ、立ち上がってゆく光景も目に浮かんできました。

 次から№1~№15までのニュースが掲載されています。『雪女』から始まったことがわかります。次は小林正樹監督の『怪談』の『雪女』を観て、『黒髪』。そして、八雲会主催の「生誕150年記念ギリシャ夢の旅」のビデオ鑑賞『日本の面影』になりますが、№10回から取りやめになります。テープ鑑賞希望者には貸し出しますとあります。これは時間があるときにお借りできたらと思います。カンヌ国際映画祭の短編映画部門で最高賞を受賞したという『おはぎ』は『日本の心』所収の「赤い婚礼」であったとあります。この「赤い婚礼」についての風呂先生の講演も新たに聴けたらと思います。またここでは会誌の原稿の催促があります。もともと、10回目で会誌を出すという計画があったのかもしれません。つぎの「つぐみの粕漬け」の話はどこかで読んだ気がします。

 そのあと、6人の方の寄稿があります。
すでに亡くなられたという照沼好文氏の、日本史の記録で誤り部分について指摘されたことがあっても、そのまま訂正されずにいたため、ハーンの『日本―一つの試論』の中でもまちがって使われているとの論の考証がありました。そして、やはり亡くなられているという金本正孝氏の論文では、籠手田安定知事について感銘する話があり、ハーンの松江中学への赴任が決まったいきさつへのいままでであったことのない論が読めました。
 しみじみと、この会にもいろんなときがあったんだーと感じました。
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『小説 小泉セツ』
2017/01/26(Thu)
 寺井敏夫著者『小説 小泉セツ』を読みました。
 山陰文芸協会発行の平成27年9月15日初版です。
 わかりやすくて、あっという間に読み終えました。
 小泉八雲については、原作・脚本ともに山田太一で、1983年3月3日から24日までNHK総合テレビでテレビドラマとして放送されたそうですが、この『小説 小泉セツ』もすぐにでもテレビドラマ化されそうな作品です。
 松江にあって、小泉セツがハーンと一緒になることによって、この本に書かれていたような、つらく悔しい思いをしたことは読み進んでみると当然といえば当然ですが、これまでそんなことにはほとんど無頓着でした。小説だから書ける真実かもしれません。
当時の松江を聞き知っている人の想像であれば真実により近い、あるいはそれ以上とも思え、なんと迂闊であったかと自分ながらあきれる思いでした。
 平明な文章にもかかわらず、これだけの切羽詰った心情を交え、奥行きをもって語られるのが小説だとしても、小泉セツを語ったものとしてはとても新鮮に思えました。
 
 士族の、食うや食わずの苦しさが語られるなかに、明治の政変が語られ、地租改正を初めとする税制などの変化による戸惑いについての記述はどこかで読んだような・・・・と、私の高校時代の恩師、阿川静明先生から送られた先生の著述による平成3年11月1日発行の『ふるさとの灯―船所仏教青年会日誌より』のことを思い出していました。
この本は国道54号線の三次の高速道路分岐点あたりの船所の、仏教青年会の毛筆の記録、明治41年起の『日誌』を解読活字化されたものです。明治の政変によって、農村の人たちも戸惑いの連続だったはずです。自給自足的な生活をしていた農村の人たちが、貨幣経済に巻き込まれ、地租改正によって、土地所有が認められ、耕作物の規制がなくなった分、土地に対する税金もかけられるようになり、出来高への租税ではなく、耕作地の面積に応じての租税になり、豊作・不作に関係なく同額の税金がかけられ、米ばかりでなく、より現金収入の見込みのある作物への研究、その流通などへの研究と、不況にあえぎつつ、自らの発展と向上のために、何をなすべきか自問自答する青年たちの記録です。夜学会での、人の集まる場所で自分の考えを簡単にまとめ、他人の前で発表する5分間演説は、帝政ローマ時代に盛んであった雄弁を競ったことを思い出させるとの先生の感想もあります。
先生の書にはまた、「人間は歴史をつくり、歴史によって人はつくられる」というヘーゲルの言葉も記されてありますが、小泉セツも歴史を作った一人ではないかとの思いをいたしました。
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『出雲における小泉八雲』
2017/01/25(Wed)
 根岸啓二編著者 『出雲における小泉八雲』 を読みました。
 八雲会発行の昭和27年7月1日再改定増補第11版です。
 これは夫が古本屋で1昨年30円で買い求めた本です。
 ネットで買い求めた、昭和5年12月20日発行の初版本と、昭和8年6月20日再改定増補第4版の2冊もあり、この3冊を見比べる楽しさもあります。
 表紙からして、初版本は『松江における小泉八雲』となっていてタイトルは右から左へむかっての文字運びになっています。
 読むことに決めた昭和27年版は、当時の本に特有で紙は粗末であり、さらに30円で買った本だけに、ていねいに扱わないとバラバラになりそうですし、活字は小さく、引用文はさらに小さく、旧い漢字で、・・・・理解不可能のまま読んだことのいい訳です。それでも、まるで1日半かかりました。

 思えば、ハーンが住んだ住居では、いちばん気にいっていた住居の持ち主で、その後ずっとハーンの住居跡として守ってこられた根岸巌氏のお話なので、目次「最後の住居の頃」はハーンをより身近に感じることが出来ます。ハーンがとても愛していた庭は、島根県園芸会長であった筆者の先代干夫氏が自ら手をくだして造られたものであること。そして、29年にふたたびこの家をハーンが訪ねたときのことを母親から聞いたエピソード。この庭を愛でたハーンの作品を読んだ人々が尋ねてきたときのエピソード。そして、家の垣根から見える真山城跡、もしかして、ここでは麒麟児山中鹿之助の毛利勢との攻防の話をなんどかハーンも聞いたかもしれないと思いをめぐらすこともできます。

 なかに、師範学校でのハーンの講演録 「想像力の価値」 の要旨があります。ハーンの ≪彼らの作文は個人の性格ではなく、国民的感情またはある種の集合的感情の現われとして私にとって特別の興味がある。普通の日本の生徒の作文において最も驚くべきことと思われるのは、彼らは全く個人的特色をもたないことである。≫ に呼応しての講演であると思えます。このなかで、想像力がこれから先にも大いに必要であうことに加えて、個々の子どもの個性を伸ばすための教授法についても言及しています。現在では個性重視の教育が叫ばれてはいますが、その教授法に添った指導というとまだまだ立ち遅れているように思います。

 初版本ではなかったもので、最後の付録のなかに小泉一雄の 「亡き母を語る 父八雲の協力者として」 があり、これもとても楽しく読めました。

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『八雲の妻』小泉セツの生涯
2017/01/23(Mon)
 長谷川洋二著 『八雲の妻』小泉セツの生涯 を読みました。
 今井書店より、平成26年(2014)5月21日初版発行されたものです。

 勿論ハーンの会に参加させていただくようになって入手できた本ですが、今さらここに記録するのも、と思うほどラフカディ・ハーンを学びながら、何度も手にとり読み返した本です。

 このたび、梶谷泰之著 内田融監修 村松真吾編注『へるん百話』―小泉八雲先生こぼれ話集 を読んだあと、読み残しはないかと、ていねいに読み返しました。

 後半309ページからの『思い出の記』は、いつ読んでもハーンの日本での美しい生活の雰囲気が読み取れて心和むものです。
外国から来たハーンの気持ちはわからないことが多いのですが、時代や境遇が変わっていても、女性の気持ちはよく伝わるのかもしれません。そして、彼女の言葉を通してハーンの人柄により近づくことができます。
 319ページに
 ≪それから山越に、伯耆から備後の山中で泊まった事をいつも思い出します。ひどい宿でございましたがヘルンには気に入りました。車夫の約束は、山を越えまして三里ほどさきで泊まるというのでしたが、路が方々壊れていたので途中で日が暮れてしまったのです。山の中を心細く夜道をいたしました。・・・・あの25年の大洪水のあとですから、流れの音がえらい勢いでゴウゴウと怖しい響きをしています。・・・≫このあと可部の太田川の渡しへとつづく道行の部分で、この宿屋がどこであったろうと、川の音の聞こえる伯耆からの旅を考えてばかりのときがあったことを思い出しました。

 セツがいやで、私もハーンと好みがいっしょと思えたのは、神戸から江戸へ行ったときの貸家探しのことです。牛込あたりにあった≪門を入ったところから薄気味の悪いような変な家・・・・あとで聞きますとお化け屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとう壊されたとかいうことでした。この話をしますと、ヘルンは「あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました。と申しました。≫私も全く同感です。


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『へるん百話』―小泉八雲先生こぼれ話集
2017/01/21(Sat)
 梶谷泰之著 内田融監修 村松真吾編注 『へるん百話』―小泉八雲先生こぼれ話集 を読みました。
 1984年7月4日から1986年11月15日まで、週2回250字枠で、毎日新聞島根版で連載されたものが、1968年に八雲会からまとめて小冊子として出版されました。
 それがこのたびさらに八雲会発足50年を記念して、新たに再版されました。

 この本は、本当に楽しくハーンに親しめ一気に読めました。
とはいうものの、松江や出雲の地名やお寺などがでてくると、グーグルマップで検索して、地図上、あるいは航空写真上で、ありかを探してハーンの歩いた道のりを確認してみたりもしました。そういえば、松江・出雲方面については、何度か遊んだこともあるので、このようにしてみるとその風景なども思い出して、臨場感ひたれる部分もありました。
 
 よほど詳しく丁寧に調べられたと感心する部分も多くありました。また、御存知の方があれば教えて下さいと、より知りたいとの願いにも多くであいました。そういった思いが通じて、ほかから提示されてくる資料もあったことも記されています。

 こういった思いは、しかし私たち夫婦も経験したことが在りました。
この書物でも55ページ、79・80ページに取り上げられている、「出雲への旅日記」の「広島にて 八月二十九日」の太田川の可部の渡しの記述についてです。
 私たちの住まいしている可部の記載はハーンの作品中たった数行ですが、以前渡しがあったところから見た川の流れや、遠くの山々をのぞみ、そして巡礼の少年のいた時代へと思いをはせてゆきました。
 我が家には、夫の叔母が、昭和35年ころこの渡しの可部側にあった「料亭翠香園」の前で写った和服姿の美しい写真があります。可部駅前に移った翠香園で以前聞いたのですが、当時の翠香園のお客は、可部の人はいなくて、広島から汽車できて、鮎料理を堪能して船で下るひとがほとんどでしたとのことで、叔母も広島の己斐に住んでいました。
 また、翠香園には舟が川を行き来する当時の写真が残っていて、中国新聞の日曜版を大きく飾ったこともあると新聞も見せて下さいました。いまでは舟で可部・広島間を行き来するなど考えられないことです。
 これほどにハーンの物語に出てくる可部の風景は今では遠くなってしまったことを感じました。
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『恋の華・白蓮事件』
2017/01/18(Wed)
 長畑道子著 『恋の華・白蓮事件』 を読みました。
 白蓮とは、大正天皇の従姉弟に当たる柳原燁子のことで、15歳のとき、華族女学校を中退して、北小路資武と結婚、16歳で功光を出産し、20歳のとき破婚となり、1911年26歳のとき、炭鉱王といわれた伊藤伝右衛門と再婚し、1921年二度目の離婚後、宮崎竜之介と結婚。2子を設けて、昭和42年81歳で亡くなった人です。
 『・・・・白蓮事件』というのは、伊藤伝右衛門のもとを去って宮崎竜介に走り、いまでいう浮気が当時では姦通罪として処罰される対象であった時代ので、そうなっていると思います。
 しかし、白蓮はその浮気相手が法学博士でもあったために、その姦通罪を免れる方法として、≪・・・・このままではあなたに対し罪ならぬ罪を犯すことになるのを恐れます。最早今日は私の良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時期に臨みました。虚偽をさり、真実に就く時が参りました。依って此の手紙により私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の訣別を告げる事にいたしました。私は私の個性と尊厳を守り培うために、あなたの許を離れます。永い間の御養育下されたご配慮に対しまして厚くお礼申し上げます。・・・・≫というように彼女が文章作成したものを直してもらって、「絶縁状」として朝日新聞に掲載します。
 つづいて、宮崎竜之介や伊藤伝右衛門のコメントもつぎつぎと発表され、読者の声も賛否両論次々と発表されてゆきます。
 この、世間一般からみて、白蓮とはいったいどんな人なのか。貞淑な女性なのか、わがままで奔放な女性なのか。伝右衛門とはほんとうにおカネに物を言わせて女性に対してひどい人なのか、あれだけの荒くれ男をまとめて事業に成功しているほど男気のある魅力的な男なのに、じっと我慢していたのかそこのところが洗いざらい取材できています。
 とことん調査すると、生身の人間のそれぞれの味が出てくるのがわかります。
 意外だったのが、有島武郎情死のいきさつでした。≪有島は、妻をなくしたあと三人の子どものために独り身を押し通してきた。作家としてもそのころ夏目漱石の地位を継ぐものは芥川龍之介か有島かと目されたほどの、文壇のの寵児であった。周辺には、いつも女たちが群れていた≫そして彼は与謝野晶子に思いを寄せるようになっていたのに、晶子の下で編集の仕事を手伝っていた波多野秋子に強引にいいよられ有島はついに秋子と姦通。秋子の夫波多野春房に一切を知られてしまい、姦通罪で訴えてやると多額のお金をゆすられ増す。≪軽井沢別荘での情死は、姦通後わずか4日目のことだ≫と書かれてあったことです。
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 『白蓮れんれん』
2017/01/11(Wed)
 林真理子著 1994年発刊の『白蓮れんれん』 を読みました。
 少し前、白洲正子の自伝を読みました。その中に、白蓮が伊藤伝衛門のもとを去り、宮崎竜助のもとへと出奔したとき、おなかに子どもがいたことなどから身を隠さなければならない事情におちいりました。そのとき、白洲正子の父親である樺山愛輔がかくまわなければならなくなり、白蓮が白洲正子たちと同居していたと書いていたので、えー?それは初めての情報と思いこの本で確かめてみようと思ったのが読み始めたきっかけでした。
 結局この『白蓮れんれん』では、白蓮が樺山愛輔にかくまわれたという記述はありませんでした。
読み終わって、何か新しくびっくりするような情報に出会わなかったような気がしてブログの過去記事を調べてみると、なるほど、すでに2014年の1月に読んでいました。
 そのときの記事をもういちど掲載しておきます。
≪・・・お話は白蓮が伊藤伝衛門と二度目の結婚をするところから始まります。そして、その嫁入った先の伊藤家から宮崎竜助のもとに出奔し、落ち着いたところでお話は終わります。
 読み終わって、印象に残ったのは、前の本によって、伊藤伝衛門に新聞紙上で絶縁状を掲載して失踪したその大胆さに度肝を抜かれていたのですが、この本ではここのところのいきさつが詳しく書かれてありました。
 姦通罪がまだあった時代、彼女に法的処罰がなされないように、出奔のなりゆきを企画したのは、彼女の意思ではなく、お互い相思相愛になっていて出奔したあとに結婚した東京大学法学部を出て弁護士になりたての宮崎竜助が、彼らの恋路を応援するやはり法学部の学友二人との三人で企画したことでした。
 まずは白蓮が伝衛門との結婚がいかに不条理なものであったかについてそれを訴えた長い手紙を東京に送ります。それを彼らが法的に不利にならず、世評を悪くしないような文章に書き直し、それを白蓮に再度送り彼女の了承を得るのです。なにしろ二人の手紙が700通もあるというのを遺族からそっくり借りてそれを読んで書かれた小説ですから、真に迫った事実が伝わってきます。
 その後の世間の騒ぎはなみたいていではありませんでした。従弟は大正天皇であり、腹違いの姉は昭和天皇の入江侍従長の奥様ですから当然といえば当然です。腹違いで戸主の兄は大金を伝衛門にもらって伝衛門とは二十五歳も年下の妹を嫁がせたのですから、結局若くして華族院議員を辞めざるを得なくなりました。それまではお金目当に妹を売ったといわれた身でした。
 この作品によって書かれた伊藤伝衛門との結婚生活と新しい恋人との恋と離婚劇。むしろ、前に読んだ本がこれにつづく三度目の結婚のお話といってもいいのではないかおもえます。前の本では結局三度目の結婚で彼女が本当に幸せになったということでした。それはおおいに宮崎家の家風というものが、彼女を大きく成長させた、そして白蓮は辛いことはあっても自分が内面的に成長できる結婚でないと満足できない人であったのだということでした。
 女性は普通子育てをしてゆくなかで成長できる要素が多いとおもわれます。伝衛門は白蓮には結婚前に知らせていなかったのですが子どもができないように手術を受けていました。三度目の結婚では2人の子どもに恵まれました。そのこともこれらの結婚生活に大きく影響したともおもわれました。
 もうひとつこの本によって知ったことは、以前は学校によって新学期の始まる月が違っていたらしいということでした。9月から始まっていた学校もあったようだということでした。≫
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第197回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/01/09(Mon)
 1月7日(土)朝は、注連飾りの籾を小鳥がついばみ、玄関に散らばった籾殻のお正月なごりをあとに、「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 早めの参加で、配布していただいたニュースのさわりや、「すみよし」の宮司様と風呂先生の記事にも目を通すことが出来ました。年の初めに宮司様のお言葉を読ませていただくとは、風呂先生のご縁とともに何かしら日本人なりの心を呼び覚まされて心引き締まる思いもいたします。
 鉄森さんが、2ヶ月も病気でお休みになっていた五十嵐先生をお連れして参加されたときは、心から新年のことほぎを述べさせていただけました。
 “Believe me” を歌って、さっそく五十嵐先生の開会の挨拶で始まり、各自の挨拶がありました。これは私には全く聞こえなくて、大変残念でしたが仕方在りません。でも元気そうに話しておられ、ほほえましく聞いておられる皆さんの顔が見られて何よりでした。
 そして、池田雅之先生古稀記念にと出版された『祈りと再生のコスモロジー―比較基層文化論序説―』のなかの小泉凡先生の「再生する文学―文化資源としてのラフカディオ・ハーン―」について学びました。
 この「再生する文学―文化資源としてのラフカディオ・ハーン―」の報告は、
はじめに 近年、全国的なふるさと創生の動きや、持続可能な共生社会の実現に向けた地域資源探求の動きとも深くかかわりながら・・・・ハーンが地域から採集した文学作品の原石ともいえる地域の基層文化を、文化資源として二次的に活用する動きが見られる。・・・・いくつかの事例を通して考察することにしたい。
 子ども塾の誕生―松江発の地域教育の場 2004年・・・・未来の松江を担う子どもたちに、現代社会の中で輝きを失わない小泉八雲の意味を継承する企画を!という意見があり、それに共感し、実践したのが「子ども塾―スーパーヘルンさん講座―」だった。・・・・未来の松江を担う子どもたちに筆者が伝えたかったのは、ハーンの五感力だった。・・・・「子ども塾」の成果を数字で計ることは難しい。・・・・五感体験の結晶である文学作品が、現代の子どもたちの五感教育に生かされ、再生されていく現場に立ち会えることを誇りと喜びをもって見守っている。
怪談をツーリズムに ・・・・2008年から「松江ゴーストツアー」という着地型観光プランを展開している。・・・・2015年末までに226回開催され、述べ4379人が参加する人気の観光プランとして成長した。・・・・ゴーストツアーは、地域住民が地域に矜持を覚える機会を提供する側面もある。≫
地域資源としての再生譚では、 ハーンの作品の「勝五郎の再生」などにある、仏教の輪廻転生の教義に似た思想は世界中にあり、このように、教養を「人間を自由にする技術」として発信していくこともできる要素についても考えられています。
、オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン・プロジェクト ここでは、エフスタシワ氏が八雲の精神性の根幹を「オープン・マインド」と捕らえたことによって、民族・宗教紛争の拡大する21世紀に必要な思考として、世界中の人にわかりやすいアートを通して表現する活動が世界中のあちこちに広がりを見せていて、再生する文学の力をひしひしと感じているとの報告です。
おわりに ・・・・今後、顕彰そのものの方向性が、文化資源の創出にシフトしていくのかもしれない。≫といったものです。
 長くなってしまいましたが、私は、ざっとハーンの会で説明を受けて、、帰っていちばんに、「国立大学法人法の概要」を、ネットで検索しました。つづいて、富山大学における「ヘルン研究会」、池田雅之先生の「鎌倉てらこや」、さらに「宮島てらこや」を長時間かけて検索しました。そしてあらためて、小泉凡先生の報告を何度か読み返しほっとしました。 
 ハーンが、松江の子どもたちに接したように、凡先生が子どもたちに接しられたからこその、≪五感体験の結晶である文学作品が、現代の子どもたちの五感教育に生かされ、再生されていく現場に立ち会えることを誇りと喜びをもって見守っている。≫の締めではなかったかと思え、新年早々良い報告が読めたことに感謝いたしました。
 また、私たち広島ハーンの会は、出席するなり「すみよし」月報をありがたくいただいたりして、いながらにしてハーン顕彰とともに、ハーンの文化資源を価値観共通認識尺度として世の中を見つめながら会が進行し、文化資源再生の様相を呈していると感じたことでした。

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『白洲正子自伝』
2016/12/31(Sat)
 白洲正子著 『白洲正子自伝』 を読みました。
 「ヨーロッパの旅」のなかの文章です。
 ≪吉田茂さんが大使になってロンドンへ来られたので、英国にいる間は大使館に泊めていただくようになった。
 ・・・・ロンドンの大使館でお世話になっている間に、吉田さんは白洲次郎という人間をよく見て理解されたに違いない。何事もなければそのままのいい友達であったであろうが、第二次世界大戦が終了した後、進駐軍との交渉の矢面に立つ重要人物として次郎を起用されたのは炯眼(ケイガン)であったと思う。
 ・・・・イギリス人は「トーク・ショップ」といって、パーティーなどで政治や経済の話をサロンに持ち込むことは悪趣味とされていた。そういう点では吉田さんも次郎も完全に英国的教養を身につけており、そこのところが現代とは違っていた。だから男性には「クラブ」というものが必要で、そこは女人禁制の「男の城」であったから、大っぴらに政治や商売の話でも女の噂でもすることができた。ただし、メムバーになるのは大変むつかしく、よほどのヒキがなければ大臣や大使だって無視されてしまう。もちろんピンからキリまであって、一流のクラブに入っていればそれだけで排他的なイギリス人も信用した。日本では外交官というと未だに華やかな職業のように聞こえるが、そういうところまで食いこまなければ本当の情報など得ることはできず、そんなものが存在することさえ若い外交官は知らないであろう。
 ・・・東大卒の秀才というだけでは、せまい日本の国内では通用しても外国では二束三文の値打もないのである。≫
 吉田茂は、明治41年、大正9年につづいて、このときの昭和11年は3度目のロンドン勤務でした。
 そのためか、このときにはすでに、フリーメイソンであったのではないかという文面ですが、うなずけます。
 またほかのところでは、、≪外国を多少でも知っているものには、戦争は負けるに決まっていたし、大本営発表で有頂天になっている人たちの夢をさましてやりたかった。…≫と述べています。
 白洲次郎についてのウィキペディアのなかで、彼が吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたことが述べられていますが、早めに疎開をして、身を守り、敗戦による終結についても考えざるを得なかったことがうかがえます。
 いままで、何冊か白洲正子の本を読んできたように思うのですが、民芸について語られたものがほとんどでした。
 しかし、この本は大正・昭和史としても格別充実した資料が満載でした。

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お墓参り
2016/12/27(Tue)
 今日は、午前中は裏山に登り、帰って、友達のところへ届け物をして、早めの昼食を済ませ、廿日市へ夫の両親のお墓参りに行きました。
 結婚してこの方、夫の両親のお墓参りは、必ず二人そろって夫の運転で行っていました。
 今年は夫が行かないというので一人で行きました。
 可部から廿日市までは、結構長い距離の運転です。
 このところ、夫も廿日市市内に降りる道を間違えて行き過ぎてしまうこともありました。
 ちゃんと一人で運転できるかどうかなんとなく不安です。
 夫と行くときは、それなりに着替えをしていくのですが、エプロンも、腕抜きもしたままにジャンパーを着て、軍手をはめていつ車が落ちても引き上げる気分で出かけました。
 途中でお花を買って、まずは、いつもどおりの道を辿っていきます。
 廿日市の体育館があるのですが、それより早めに左の佐方に降りました。佐方に早めに降りたのは初めてで不安でしたが、元の道に平行して南下でき、宮内で右折して間違えずに最短距離でお墓に到着できました。
 誰もいない墓場でひとり、お墓を掃除して、ろうそく立てや線香立てなどを、取り付けられている流しに持っていってきれいに洗って、お墓も水をかけて洗い前面の草引きもしました。
 もともとそんなに汚れていなかったので、細かいところのお掃除が出来ました。夫がいるとそんなことはしなくていいとか何とか、夫の判断だけですべやって帰るのですが、今日は一人なので自分のペースで、心ゆくまでお掃除ができました。お花を手向けてお祈りをして、使わせていただいた道具や流しもきれいにできました。
 一人で行ってよかったことは、墓場の向かいの戦没者の慰霊碑のあるところに上がってみることができたことです。
 この慰霊碑はどっしりと大きく、灘尾弘吉の名が大きく刻んであります。
 よくみると、それより上の段にもお墓があり、さらにその上の段にもお墓があります。ずっと高いところまで上がってみました。
 上からは、お花を手向けた夫の両親の墓も見えました。植え込みの山茶花の花も美しく咲いて見えました。小雨が降り出したので、あわてて下りて、車を廻して帰りました。
 東へむかって走る途中、道のまっすぐ向こうに、虹が出ています。なんだか今日のお墓参りがとてもいいことだったように思えてきます。
 途中、夫の祖母と叔母さんのお墓にもおまいりさせていただいて帰りました。


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『宇佐八幡宮』
2016/12/24(Sat)
 三橋 健監修 週刊【日本の神社】№17『宇佐八幡宮』を読みました。
 この冊子は、2014年2月18日№1『出雲大社』~2016年6月7日№121『総索引号』までを夫が購入したものの1冊です。
 いままで読んだことがなかったのですが、邪馬台国はどこにあったのかと考えていると、夫が、いろんな説があるなかで、一説には卑弥呼の墓が宇佐八幡宮の境内のなかにあったともいわれているといいましたので、今日はそのことにふれてないかとの思いで読みました。
 読み終わってみると、邪馬台国は奈良にあり、その邪馬台国は北九州地方にも強力な勢力のあることもわかっていて、それから身を守るために宇佐八幡宮は奈良のヤマト政権にとっての出城の役割を果たしたと読み取れます。
それは、
 《ヤマトの九州支配と宇佐神宮の地理的意味
 ・・・・古代の人々にとって、ここは流通と戦略の拠点だった。まず、沿岸部は北部九州とヤマトをつなぐ海の道の「止まり木」の役割がある。これは、誰にでもわかる地勢上の優位性だ。
そしてもう一つ、大切なことがある。それは、ヤマト(東)が九州(西)を支配するために、宇佐神宮のある豊国(豊前、豊後)は、なくてはならない場所だったのだ。・・・・。
古代日本をめぐる知られざる実相
 纏向遺跡(奈良県桜井市)の発掘調査によってヤマト建国の詳細が明らかになり、意外なこともわかってきた。弥生時代の最先端地域だった北九州は、ヤマト建国にはほとんど影響を及ぼしていなかったのだ。それどころか、ヤマトや出雲から北部九州に人が流れ込んでいた。『日本書紀』は、「ヤマト建国は神武天皇の東征によって成し遂げられた」と主張し、邪馬台国北部九州論者は「九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」と主張するが、雲行きが怪しくなってきた。「文物は西から東に流れる」という常識までも、覆ってしまったのだ。・・・・日田の盆地は天然の要害で、西からの攻撃には頗る強かった。その反面東側から攻められるともろく、また日田から川を下れば一気に筑紫平野を襲うことが出来た。北部九州勢力にとって、日田は厄介な存在だった。・・・・日田市の小迫辻原遺跡は、ヤマト建国と同時代の政治と宗教に特化された環濠集落だ。この遺跡の特殊性は、機内や山陰から土器が持ち込まれていたことだ。しかも、ヤマトの纏向遺跡と平行している。ここに「東側の勢力が拠点を築いた」ことは間違いない。》と容赦ない。
 纏向遺跡の語るものを知らないと・・・・。ということでした。
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『次郎と正子』
2016/12/24(Sat)
 牧山桂子著 『次郎と正子』を読みました。
 平成19年4月に新潮社から出版されたものが、よく読まれて、さらに平成21年12月に文庫本として出版されたもののようです。
 白洲次郎や白洲正子についての本を読むのは何年かぶりです。
 ひさしぶりに手が荒れるほどごそごそとなにやかややって本から遠のいていたので、まずは軽い本をと読みました。昼食を食べて後片付けもせず読み始め、読み終わったころ和子さんが来ました。
 和子さんが今日は孫を連れて、明治製菓がスポンサーをしているステージを見に行ったといいます。
 あら偶然。いま読んでいた『次郎と正子』の「軽井沢の夜」と題したエッセイに明治製菓の本家の明治屋創業の磯野計について書かれていたとつい口走ってしまいました。そのエッセイでも、つい書いてしまったといった挿入コメントでした。
 岩崎弥太郎が、当時東京大学の学生数人をイギリスに留学させることになり、磯野計はその一人に選ばれました。岩崎氏から、帰国後は三菱に入社することはない。何でもよいから将来の日本のためになることを身につけて来いというお話があり、食に興味のあった磯野計は、外国の食糧品の輸入の道筋をつけて帰国し、現在の明治屋の基礎を築いたと書かれていました。
 岩崎弥太郎のこの要求は、じつは、このたびの学指導要領の改訂によって提示された、アクティブ・ラーニングを導入して、何を学ぶか、どのように学ぶか、何が出来るようになるかというものと似ています。読後感からは脱線してしまいますが、学ぶということについて最近、学び終わるときには、すでに起業できる能力を持っていることが出来ないと・・・。という時代になったことを感じたばかりのこの改訂に驚いています。
 以前、我が家で2人の学生をホームステイさせたことがありました。一人はIBMの奨学金で、テーマと行きたい国を決めて応募、多額の奨学金をもらっての留学でした。いまにして思えばそれだけの奨学金を元手に起業できるのではないかとも思えます。もう一人は女の子でインドネシアの文部・スポーツ省というところからの派遣学生でした。
 なにかをするために、あるいはなにかの研究のために留学するのと、学びの一環として留学したのとの違いがあったことは否めません。
 著者の牧山桂子さんの両親は双方とも留学しています。母方の父親の樺山愛輔も留学していました。これら多くの留学経験を持つ親族に取り囲まれて留学の効果を考えていたからの挿入文であったかもしれません。
 それにしても、牧山桂子さんの飾らない両親に関する思いは、末っ子であるだけに、距離をおいているぶん充分楽しめました。
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『魏志倭人伝』
2016/12/22(Thu)
 監修 高島忠平・編集 折尾 学・発行 吉野ヶ里公園管理センター
 平成26年3月31日(校訂)第4刷
 表紙には
  『三国志』
   『魏書東夷伝倭人の条』
     通称『魏志倭人伝』
        読下し文・注釈

とあり、2000字あまりの『魏志倭人伝』の原文と、読下し文、注釈とが、わかりやすく書かれていて、手軽に読めるようになっています。
 
 吉野ヶ里遺跡の高台に立って、見渡すかぎりの青い空、そして温暖な風、赤い花そして白い花と植え分けたいちめんに広がるソバ畑や、「スダジイ」などと書かれた樹木の通路を歩き、あるいは木製の鳥を乗せた鳥居をくぐりながら、魏(220年 - 265年)の歴史書に物語られたころの日本をおぼろげながら回想しました。
 それは、邪馬台国はどこにあったのか?という究極の関心事をはなれた、自分のなかにも残っていて消えることのない生命のルーツに出会ったような懐かしさでした。
 九州旅行から帰って、忙しい日々をすごし、活字から遠ざかっていました。いま、吉野ヶ里遺跡でいただいた数枚のパンフレットにまぎれたいたこの冊子で、あらためて、邪馬台国はどこにあったのか?という関心もいだきながら、全文25ページを丁寧に読んでいきました。
 邪馬台国はどこにあったのか?という問いには、
 《人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。舊百余国。・・・・對海国・・・至一大国・・・至末盧国・・・至奴国・・・至不彌・・・》まず、戦国期(前403~221)の『山海経』に朝鮮半島の南部に倭があって倭は燕に所属したとある。山島は九州とする意見が有力。對海国は対馬である。至一大国は現在の壱岐市。末盧国は現在の松浦(佐賀県東松浦郡・唐津市)。至奴国は昔、那の大津といわれた博多、現在の福岡市博多区から春日市一帯。至不彌国は現在の宇美(福岡県糟屋郡宇美)から宗像郡と、飯塚氏(旧福岡県穂波郡)に当てる説がある。
 このように、異説も取り上げながら、決めるにはむずかしいもの、あるいは異説の矛盾点について述べ、邪馬台国の位置は吉野ヶ里??への思いも否定せず、『魏志倭人伝』からの文字や、発掘資料、『古事記』、『日本書紀』、国々の『風土記』などの資料による注釈を読みながら、考えを深めるヒントに胸をときめかしました。
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九州旅行・熊本市
2016/12/17(Sat)
 熊本に入る前夜、熊本から1時間くらい東に入った上益城郡山都町の通潤橋の近くにいる友だちをたずねました。彼女はこのたびの地震災害で被害を受けて崩れかけた熊本城を見て涙が出たと話しました。
 お城について、このような思いがあることが、城下町に育っていない私には以外でした。夫に、広島城も原爆で焼け落ちたとき、広島市民もこんな思いだったのだろうかとたずねますと、「そんなことはないよ、何にもなくなったのだから。だから広島の人間は冷たいんだ」とこれまた思ってもみない言葉。
 そんな言葉を胸におさめながら、朝一番に熊本城を訪ねました。熊本城を訪れたのは初めてでした。災害の前は、熊本城ではとにかくあの石垣が見てみたいの一念でした。あの憧れの石垣が無残にも崩れ落ちています。まるで私が修復しますといわんばかりに崩れた石垣の写真を何枚も撮りました。
 子どものころ、姉がレコードをかけては、扇をかざして何度も踊っていた、三橋美智也の『古城』の「崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉(ワクラバ)や・・・」の歌詞が思い出されてきます。この城を見て涙を流す市民の心を思って涙が出ます。お堀のまわりの歩道なども壊れています。風呂先生御推薦で熊本城のお堀の向かいのホテルキャッスルも、足場に取り囲まれています。明治10年の西南戦争のときにも町はいたるところが壊され、ハーンが第五高等中学校に赴任したときもまだ復興しきれていなかったようすをどこかで読みました。自然災害の多い国土に人災まで・・・の思いもめぐり、はかない気持ちが漂ってきます。
 熊本市の繁華街に出て、小泉八雲旧居を訪ねましたが、立ち入り禁止部分も多くて入場料は無料になっています。門扉も玄関も開いたままで人気がありません。もう隣人になったような気分であちこち眺めておりますと、館長さんが、あわただしく入ってこられました。広島ハーンの会で風呂先生に学ばせていただいているものですと名乗りますと、大忙しにもかかわらず、親しく対応して下さり、いろんなパネルを取り出してきては説明をして下さいました。無料だけあって、立ち入り禁止場所がほとんど全部で、玄関から座敷の奥のほうを眺めるだけで終わりです。
 この旅行では、土産に「ひごくに」というケーキを頼まれていましたので、鶴屋百貨店におもむき、頼まれていない人たちにもまとめて購入しました。
 熊本といえば、質実剛健の気風を広島ハーンの会で学びましたが、売り場面積では日本最大級というこの百貨店の手提げ紙袋の質素さには、その気風がよく現れておりました。
 そして、夏目漱石旧居にも足を運びました。
 この記録を書いていると、来日中のロシアのプーチン大統領が柔道を見に行って、山下泰裕と話している映像がテレビに映し出されました。この山下泰裕は私たち夫婦がたずねた通潤橋の近くにいる友だちと従姉弟で目元や口元などどことなくよく似ています。彼が小さいころ子守をしたということでした。
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九州旅行・三角西港
2016/12/15(Thu)
  三角西港は、ハーンの作品「夏の日の夢」の舞台になった、「浦島屋」をたずねての旅です。左に海に浮かぶ島々をみながら西にむかいます。
 途中、カメラを持った人たちがたくさんいるのに出くわしました。振り返って見あげると空中に橋が架かっているのですが、その真ん中がいままさにつながろうとしているのです。つながる瞬間をカメラにおさめようとの列のようです。
 ああー、連結される直前を写真に取らないと・・・。と、駐車できそうなところを探しますが、「残念!」と、さらに三角西港にむかい三角西港の駐車場に車を止め、「浦島屋」へと向かいます。
 ところが、そのまえに、三角西港の埠頭すれすれに打ち寄せる波が表面をぬらす石畳に出会ってしまいました。この美しさに圧倒されます。この石畳に見入っていると、この港は、明治時代にヨーロッパの人によって設計されたのだと説明してくれます。すぐに、この旅行に出かける直前に読んだ、フリーメイソンが思い起こされます。石工といえばフリーメイソン。港がなければ海軍の戦艦も寄港できないから、フリーメイソンと海軍は切り離すことが出来ないと夫に説明されて、合点。このようにしてフリーメイソンは世界中に広がっていったと考えると、なんだかわくわくして、そのできばえをていねいに見届けます。
 三角東港までしか線路が伸びなかったために、西港は明治の面影を残したまま今日に至っています。大方130年近く波に洗われ続けてきたこの石畳の埠頭。わたしは、山深いところで育ったために港への思い入れがないけれど、この港の築工にかかわった人たちの仕事への誇りを全身で受け止め心の奥深いところへ畳み込んでいきます。
 港の広場に明るく美しい洋館立ての建物があり、それが「浦島屋」です。さっそく入らせていただきますが、ハーンの顕彰のための見物人はいなくて、何でこんなところに、小泉八雲が??と思いつつ、一面の説明を読んで納得して感じ入っておられる様子は、ハーンの顕彰に訪れた私が、埠頭に感激したのとさかさまでした。ハーンが乙姫とたたえた“根岸小町”とうたわれた美人のヨシさんの写真にも出会えてまずまず。
 港の奥の高台に、開港後開庁したという三角簡易裁判所、宇土郡役所などが、「法の館」あるいは「九州海技学院本館」として、面影を残しています。「法の館」では、ほかに客もなく二人で隅々まで見学し、裁判長になったり被告になったりしました。「九州海技学院本館」では、玄関に、ようこそどうぞ見学して下さいとかかれてあったので、興味のある図書館に入っていくと「すみませんここは試験問題を・・」といわれあわてて退出しました。
 さんざん見学して駐車場に戻ると、駐車場から巨木が海に向かって太く伸びています。地元の人が、潮風を好む「あこうの木」といい、天草市のシンボルとなっている木ですと教えてくださった。
 見上げると空中の橋が連結に失敗したのか元通りにまんなかがあいていました。


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九州旅行・水俣2
2016/12/14(Wed)
 旅行の記録がのびのびになっています。
 もっと言うと、NHKの連続ドラマ「とと姉ちゃん」関連の本もまだ何冊か読み残しの本が残っているし、いまの連続ドラマ「べっぴんさん」関連の本も積んであるし、第一熊本大学の『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』もなにかまだのこっていそうな気がします。
 それに、九州から帰って、レヴィ・ストロースのNHK100分de名著『野生の思考』を読み返しても理解できていなくて、そのことばかり考える毎日だしと、頭の中が騒々しいばかりで雑然とした日々を過ごしていました。
 でもこの本では、理屈抜きで、感じられることがありました。九州旅行で、椎葉村や、吉野ヶ里遺跡をたずねたとき、何もないこんなところで、どうやって暮していただろうと、想像を絶する思いに涙が出そうになりました。しかし、『野生の思考』に語られる、いまに引き継がれている人間の叡智の豊かさに、あのとき見た青空に、そして、14日の夜ホテルの窓から見たスーパームーンの神々しい満月に、広くゆたかに心が開かれてゆくのを感じました。
 、そんななかで、裏山散歩で話題になっていた、赤くかわいいマフラーを約1週間もかかってやっと編み上げ、首に巻いて夫に見せると、似合わないとのこと。裏山に持っていって、いあわせた水野さんの奥さんに見せると欲しいといわれ、巻いてみていただくととてもかわいい。みんなも賛同。マフラーは行き先が決まって水野さんの胸元でイキイキと映えている。まあ一件落着ということで、記事を書こうという気持ちになりました。
 水俣です。水俣の町外れで、不思議な木に出会いました。車を止めてよくみると「はぜの木」です。わたしたちが広島で目にする「はぜの木」は、すーっとのびてとおりにすーっと枝を伸ばしています。しかし、これがおなじ「はぜの木」だとわかるにはあまりにも立ち木姿がちがいます。しかし、これも「はぜの木」という気持ちで夫と2人で記念写真を撮りました。
 市役所の前にある水俣市立蘇峰記念館と、町並みの中にある徳富蘇峰・蘆花生家を訪ねました。双方とも、ほかに来訪者がなく、職員の方の丁寧な説明を受けましたが、聞こえないので、返事に窮し少し疲れました。蘇峰は、少し前『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』で、ハーンが第五高等学校に勤めていたころまでの熊本の学校事情の説明にもその名前なども出てきていたので、懐かしく思いました。水俣市立蘇峰記念館では、頼山陽が水俣を訪れたとき峠で乗ったかごが大切に保管されていました。私は頼山陽の記念館が広島にあり、私自身、頼山陽の叔父に当たる杏坪が一時代官を勤めたところで生まれ育ったことを話しましたら驚かれました。
 蘇峰も、この頼山陽の影響を強く受けたことがありそうです。
 町を散策中、石牟礼道子さんも通ったであろう侍街道へ登ってゆきました。なんと侍街道沿いに、小さな「はぜのき館」があります。ろうそくの約30%が熊本県で生産されており、そのほとんどをこの水俣が占めているということでした。朝、町外れで出会った「はぜの木」の謎が解けた一瞬でした。
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実験第2日目
2016/12/09(Fri)
  今日は、実験台2日目です。
  よみがえった安藤家に集合しました。
  まばらな集合になったので、最初に行った私とけい子さんふたりは、道路から、引き込み通路、駐車場、庭木のあいだ、玄関まわりと、空き地の落ち葉をかき集めて、袋詰めをしました。終わるころ4人そろったので、持ち寄ったもので、お茶の時間にしました。
  話し合って、急遽、玖谷埋立地管理事務所に連絡をとって、和子さんの先導で、3台車を連ねて、そこに行くことにしました。
  たくさん大きな紙袋が必要だろうということで、途中ナフコで買うという案が出るや、けい子さんが2件ぐらい隣で、いただいてくると言い出し、私もついていって見ました。けい子さんは、あけっぴろげの倉庫で袋があるこ とを確認すると、事務所に入っていって、出てきた男の人に頼みましたら、丈夫な立派な袋を、もてるだけ持って帰ってくださいと取り出すのを手伝って下さり、私は、近所とはいえ重くなった大量の袋をえんやと持って帰りました。
  とにかく、玖谷埋立地管理事務所からは、直接現場にいこうということで、早めに昼食も済ませることにして、4人で充分食べて安藤家をきれいに片付けて出発しました。
  玖谷埋立地管理事務所は以前3人で登った押上山の上り口のところで、山に登らず、そのまま道路に続くトンネルを抜けたところにありました。それぞれ手続きをすませ、それぞれのところで説明を受けて、いただける量の4分の1も詰め込めませんでしたが、みんな汗だくで、3台に積み込みました。
  現場では、おくところを決めて、準備をし、またまた汗だくでそこに運び込みました。また、現場は広いので、ほかの作業もして、道具を洗って終わりにしました。
 つぐみさんのうちで、お茶を頂き、友達に教えてもらって作ったという柚子味噌で、きゅうりも出してくれました。私と和子さんは美味しいので、全部食べました。
  今日は、夫がひどい風引きで声が出なくなっていて、我が家での夕食はありませんでした。
  それどころか、私も味噌汁と、アジの南蛮漬けと、明太子だけで夕食を済ませました。
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第196回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/12/05(Mon)
 11月3日(土)「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 当日は、三次市出身の詩人井野口慧子氏の講演「極私的小泉八雲」を聞きました。
 ブログで知り合い、詩集もお出しになっているみどりさんから、本当にたくさんの本をいただいていて、そのなかに、多くの詩集もありますが、つい、詩集のほうが後回しになるというのが私の読書です。  
 もともとセンスがないわたくしなので、文学においても、芸術的方面への関心が薄いのです。
 しかし、当日は、詩人のお話ということで、こうごうしい気持ちで受講です。

 先月いただいた資料『深い永遠の中へ 詩が生まれる場所』の中に、
 ≪もしかすると、祖父が娘の子供として生まれ変わり、七十数年後に、再び三次の河原の詩を書くことになった。≫
と感じられている、その感性の奥深いところの思いのようなものについて話されました。
 このような感性で大切に日々をつなぐことによって、次々と巡り合う人々が、何かの関連性を持つ因縁の不思議について。
それを心の奥深いところで受け止める。さらに、このつながりは、人と人だけではなく、人と自然、草や木や石や山や川や海や空や・・・・・そして、時空を超えて歴史をくぐりぬけて、ひとびとに受け継がれて、受け止められていく。
 そのような経験のなかで、ラフカディオ・ハーンについても、ずっとむかしに、日本の民族的な心が、世界中に広がっていて、ハーンは、ギリシャ、アイルランド、フランス、アメリカなどをとおって、日本に来たのではなく、日本に帰ったと思えるとも話されます。そして、小泉凡先生とのご縁などから、小泉八雲の霊にもひかれて導かれていることを感じる時もあるというようなお話でした。
 絵本の読み聞かせや、詩や物語などの朗読もされておられるとのことで、平川祐弘訳で、小泉八雲の『怪談・奇談』のなかの」「おしどり」の朗読がありました。
 夫を殺されたメスのオシドリが、矢を放った尊允(そんじょう)の夢に現れて恨みを述べ、明日赤沼へ来るようにいいます。やってきた尊允(そんじょう)のまえでおしどりが自分のくちばしで自分のお腹を裂いて死んだため、尊允(そんじょう)は、頭をそって僧になったというお話でしたが、とても情感のこもるいい朗読でした。
 引きつづいて夜、恒例の忘年会でした。私も、何か因縁めいたことにであえたらと、会場になった、料亭で、そこの経営者について訪ねて見ました。
 やはりそうでした。すでに亡くなっている夫の知人の奥さんが、この料亭の娘さんではないかということでした。ちょうど、広島で土砂災害があったころ、フランスに在住のその娘さんのことが1時間くらいの番組で放送されて、その母親ですと、Iさんと奥さんの映像が映されたとき、夫が、この前行ったという料亭の娘さんだよ。と言ったことを思い出したのでした。
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九州旅行・水俣
2016/12/01(Thu)
 夫から、順序よく記録してくれと、注文が来ました。
自分勝手に私のブログの記事に合わせて自分のブログで写真の紹介をはじめていたための注文です。しかし、私のほうも旅行ボケと、忙しさで、思い付きの記録になってしまいました。(仕事をやめてからのほうが忙しいというのがさっぱりどうしてかわかりませんが・・・。昨日も交通安全協会の依頼で8時から夕方4時までボランティアで、廃校を利用した西綾ケ谷集会所で餅つきを手伝い、餅とり粉だらけになって帰ってきました。女性会というのがあると聞いていたのに、女性は私と西田さんという人だけで、あとは男性8人でした。忙しさは並ではありませんでした。今日はこのお餅を路上で配る活動に借り出されています。)
 それでも、記念写真だけの記録よりはいいのではないかと自分に言い聞かせています。
 15日、水俣。ここは私がいちばん訪ねてみたかったところです。
 いまでは、水俣病の保障業務を専業とする会社ということになっているチッソ水俣工場の周りを始業時間前に、見て歩きました。
 創業した明治の初めころ、材料や製品の運搬のために水路が引かれています。その水路を見ると、当時の近代化を推し進めるための意気込みが伝わってきます。そして会社の正門前を国道3号線が走り、向かいが肥薩おれんじ鉄道の水俣駅です。チッソの会社によって町が成り立っている様子が伺えます。
 これは、私たちが住んでいる旧可部町の大和重工とおなじしくみだと、いま気がつきました。太田川から会社に水路が引かれ、正門の前を国道54号線が走り、横切ると可部駅です。
 水俣病資料館は、水俣湾の北側の突端にあります。
 水俣湾への水俣病の原因となる汚水口の百間排水溝からの汚水で死んだ港を埋め立てて、エコパーク水俣が作られ、巨大な面積の公園になっています。
 水俣病資料館は開館間際で、受付は閑散としていました。NHKの「100分で名著の石牟礼道子著『苦海浄土』」をみてきたことを告げました。そのうち、見学会で訪れた中学生などを含めたくさんの見物客が詰め掛けてきました。見て歩いていると、先ほどの受付の女性が話しかけてきて、私は千葉から来てここに就職したと話され、千葉にもチッソの工場があり、問題があること。広島では、原爆被害についてどのように子どもたちに伝えているのかなど質問を受けました。夫のところには、館長が行って、展示の苦労話などにくわえ、やはりおなじような質問をされたようでした。被災者として差別を受け、いまも続く補償問題を抱えていることに関しては同じということでの質問だったでしょうか。
 身につまされるものを感じました。
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