第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」参加記録
2017/04/10(Mon)
 当日、4月8日は夫の誕生日でした。一緒になって以来、夫の誕生日がこんなに素適だった日はありませんでした。
 あっ!夫の誕生日の記録ではなくて、第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」の参加記録でした。
 朝から広島国際ホテルにいくことに運命的なものを感じていました。夫は結婚前、街で偶然出会ったら必ずこの国際ホテルの地下にあったバーで、食事をご馳走してくれました。そこのバーは、ホテル内のレストランや料亭から和食・洋食とどんな食事も注文することができました。
 思い出のホテルだね!と朝夫にもうしますと、自分は最初私を見かけた金正堂が思い出だといいました。
 私はそのとき金正堂で当時話題になっていた『赤頭巾ちゃん気をつけて』を立ち読みしていたのにおかげで読みをのがしてしまいました。
 あっ!第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」の参加記録でした。
 広島市まちづくり市民交流プラザでは、風呂先生の奥様を始め、宇野先生、そして東京からこられた丹沢先生にお会いすることができました。丹沢先生は以前いろいろと贈り物をしていただいていたので、そのお礼を述べさせていただくことができました。初めてお会いしてみると、とても素適な先生なので、こんなひとがほんとに世の中におられるのかとまるで、子どものころよく父親に連れて行かれた映画館で見た若いころの森繁久彌に出会ったような気分になりました。
 稲垣明男氏の講演では、小野木重治編著『ある英語教師の思い出』~小泉八雲次男・稲垣巌の生涯~を読んでおりましたので、稲垣明男氏については父親と縁の薄い末の男の子というイメージだけがありましたが、とてもゆたらかに感じられる方で、終始心豊かな気持ちで楽しくお話を聞かせていただきました。特に来広して、午前中平和公園で慰霊碑にお参りに行かれたときのお話では、涙が出ました。ラフカディオ・ハーンが熊本の第五高等中学校で全校生徒を前に講演した『極東の将来』の最後に、「九州スピリット」について語りそのことを大切にと申し渡されたことを思い起こし、その土地にくらす者のよすがへのまなざしに力をいただきました。夫も生後4ヶ月で被爆し、高校時代も入院生活が長かったようです。いつの世も、急激な成長や不況からの脱出を望むと必ず取り返しがつかなくなることが起こることを心しないわけにはいきません。明男氏はなんと言ってもハーンに生き写しの面差しをしておられ、立ち姿もそっくりではないかと思います。何度も握手をさせていただき手の感触も忘れません。
 アインリッシュ・ハーブ演奏者の奈加靖子さんは、末国さんがお話を深めてくださったので私たちの心の琴線にも触れてくださり、とてもいいお話をうかがうことができました。そして、井野口慧子さんとも三次の話しができました。ご自分の祖父の『黒い蝶』を英語訳された桑本仁子さんご夫婦に会えたことも大きな喜びでした。

 最後に、こんなにみのりおおいい祝賀会に出席できたことを風呂先生と、それを支えてくださった風呂先生の奥様に心よりお礼申し上げたいと思います。


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『ひねくれ一茶』
2017/04/06(Thu)
 田辺聖子著 1995年9月講談社発行の文庫本『ひねくれ一茶』 を読みました。
 午前中は、交通安全協会のイベントに参加。昼食後から夕刻まででつづきを読みおえ増した。夕食には一茶にあやかって、ブランデーを久しぶりにたっぷりいただきました。夕食はすき焼きです。老夫婦が二人ですき焼きとは、こってり過ぎると思いますが、さにあらず、こってりはこってりなのですが、友達が畑に玉ねぎを植えていたのが、その借りていた畑にマンションが建つことになって、その玉ねぎを抜かなければならなくなったのでといただいて、抜いた玉ねぎを試しに丸ごとすき焼きにしてみました。それがなんとも美味しくて、以来抜くごといただいて、この玉ねぎの丸ごとすき焼きのとりこになったのです。お肉だけがのこるのが特徴です。
 この一茶の文庫本は、なんと643ページもあります。文庫本でこんなに厚い本は初めてかもしれません。しかし読んで感服いたしました。
 五木寛之の解説でその記録に変えます。
≪「兜を脱ぐ」という言いかたがあるが、いまどきの若い人たちに通じるかどうか。こいつはとてもかなわない、と、白旗をかかげて降参することである。田辺聖子さんの『ひねくれ一茶』を詠み終えたときの私の心境が、まさにそれだった。
 考えてみると、小林一茶という人物は、どうもはっきりしない男である。熱烈なファンも多い一方で、なんとなく彼をいけ好かないと感じている向きも少なくないようだ。私自身もこれまで漠然とそんな受け止め方をしていた。たぶん、一筋縄ではいかないしたたかな男、という固定概念にとらわれていたのだろう。
 そんな私の月並みな一茶観に、気持ちのいい一撃をあたえてくれたのが、この『ひねくれ一茶』だった。
 出囃子の音がきこえてくるような洒脱な語り口につい引きこまれて、ページをめくるのももどかしく読みすすんでいくと、やがて小林一茶という不思議な人物の姿が行間からぐいと起ちあがってくる。体つきや、目鼻だちも見えてくる。身のこなしや、声の調子、吐く息のなまぐささまでが感じられる。江戸の町の華やぎや、信州の雪の重さ。そして故郷と肉親に対する執着の深さと激しさ。職業的俳人として業界に生きる自負もあれば、地方出身者の入り組んだ劣等感もある。一座建立の歌仙の座に身をおくつかのまの恍惚は、一転して先立つ知友や妻を見送る悲しみに変わる。
 それにしても、ここに描かれている小林一茶の濃密な存在感はどうだ。こういう男とはあまりつきあいたくはないなあ、などと思っているうちに、いつのまにやら一茶の俳諧仲間の末席にでもくわわったような気分になってきて、彼の病気の場面になると大根のひと束でもさげて見舞いに駆けつけたくなってくる、といった具合なのである。それだけではない。小林一茶を見る目が変ってくると同時に、月並みな言いかただが、人間、とか、人の世、とかいったものに対する自分の見かた、感じ方に、それと気づかぬほどの変化が生じてくる気配さえあるのだ。うまく言えないが、日ごろ「嫌なやつ」と思っているような相手にでも、自然に声をかけられそうな気分になってくるのである。いい小説を読むことの醍醐味とは、たぶんこういう体験を言うのだろう。・・・≫
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『三木清 人生論ノート』
2017/04/03(Mon)
 岸見一郎著 100分de名著テキスト『三木清 人生論ノート』を読みました。
 早朝読み終えて、山歩きをしながら考えました。
 この本を、安部政権前に読んでいたとしたら、さすがNHKの推薦図書でいいことが書いてあると、この図書に出会えたことに感謝して読んだと思います。
 しかし、岸見一郎氏は、この本が書かれた戦前の時代と、今が大変よく似ているので、今こそ読む意味があると冒頭に掲げています。読んで個人個人が、自分の人生について考えてほしいとさらにいろいろの局面でも述べています。
 この 『人生論ノート』が連載で掲載されているあいだに刊行した『哲学入門』は驚異的なベストセラーを記録しているといいます。内容から考えて、当時これらの本を読んだ多くの人はどういう気持ちになっただろうかと考えます。
 うがった言い方をしますと、籠池氏の国会招致では、巷の話題を耳にするにつけ、国民のほとんどの人が何らかの形でテレビでこれを見て大変な視聴率だったのではないかと感じます。
 このときの証言がどうであろうと、以後の国政を預かっている人たちの動きを見ていると、逆に、如何にこの証言が大きな爆弾を抱えた証言であったのかという思いがいたします。証言の内容よりも、以後の対応によっていまのところ、日に日に政府は国民の信用を失っているように感じて残念です。
 このことは、著者の岸見一郎氏が言っているように、三木清が哲学者として述べていることが、時の為政者にとって戦時体制を揺るがすような爆弾思想でありましたので、彼を陸軍報道部員として徴用し、国外に追放したり、些細な言いがかりをつけて、投獄しなければならなかったことに思いがつながります。戦後になってからでさえ、自分たちが戦犯を問われないために彼を投獄したままでついに死に至らしめるのです。
 先日、地域の公民館で交通安全協会の理事会があり、いきなり主催者側の一員としてはじめての出席だったため、早めに出席して、準備を済ませ、図書室であのユダヤ人へのパスポートで有名な杉原千畝についての本を読みました。彼は北満鉄道譲渡交渉のときにも、広田弘毅に外交手腕を高く買われるほどの外交官でしたが、帰国した昭和22年に外務省を退職させられました。  戦後も戦犯への恐れから、時の為政者は戦時中の自分の行動を反省するどころか、護身に躍起であったことが書かれてありました。敗戦後の数年は、それまでどおり、人間が人間としての自由や尊厳について考え、道徳的に生きることについて考えることが容易ではなかったことを知りました。
 三木清は、太平洋戦争が始まる前から日本がアメリカと戦争することや、日本はその戦に破れて、同盟国の独裁者ヒトラーが自殺することを予言して友人達に話していたということがわかっているそうです。
 三木清の『人生論ノート』について書いた岸見一郎氏の今の政情(三木は検閲を考えて社会情勢といったでしょう)を見越しての解説を、NHK教育テレビ放送で今夜10時25分から、そして4月の毎週月曜日夜に勉強できたらと思っています。
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『怪談』
2017/03/31(Fri)
 しのだじろう著 マンガ日本の古典 『怪談』 を読みました。
 『怪談』は、マンガ日本の古典(全32巻)の最後の32巻で、読み始めてわかったのですが、すべて小泉八雲の作品の漫画化です。

 収録されているのは、『雪女』・『生霊』・『死霊』・『むじな』・『ろくろ首』・『幽霊滝の伝説』・『おしどり』・『天の川綺譚』・『茶碗の中』・『虫の研究「蝶」・「蟻」・「蛍」』・『耳なし芳一』・『生まれかわり』・『乳房』・『和解』の16の作品です。

 参考文献としては、
  『怪談・骨董他』 平井呈一訳 全訳小泉八雲作品集10 1964年 恒文社
  『日本雑記他』 平井呈一訳 全訳小泉八雲作品集9 1964年 恒文社
  『怪談・奇談』 平川祐弘訳 1990年 講談社
  『小泉八雲全集6』 田部隆次訳 1926年 第一書房
  『小泉八雲全集7』 田部隆次訳 1926年 第一書房
 があげられています。

 作者のしのだじろうは、
 ≪日本には古来、霊魂や怪異にまつわる説話、伝承は数限りなく、『古事記』・『日本霊異記』から『東海道四谷怪談』・『雨月物語』に至るまで古典文学にも多数、収録されています。
 八雲はそうした古典から民間伝承まで、まさに霊にとり憑かれたように研究し、掘り起こし、暖かな心を加えて生き返らせた。まとめた時代は明治でも内容は間違いなく「日本の古典」といってよいし、現代でのポピュラー度でも他の「怪異譚」より親しまれています。
 そこでぼくは小泉八雲の他の作品群も読者諸氏に知ってもらいたいと思い、筆をとったのです。≫
と述べ、これらの作品を選んだ理由としては漫画化に向いていたことも述べています。
 脱稿までに10ヶ月の月日を要した力作です、といわれるほどあって、十分楽しめました。
  私はこれまでこういった怪談などにほとんど興味を持っていなかったように思います。おなじ読むならノンフィクションを選んで読んでいたと思います。
 しかし最近最後の職場での経験から、人間の深層心理のなかで、各人が自分でも表現化できない、あるいは意識していない感情について考えるようになりました。さらに、古代より、物語られることによって、人間社会が共通認識を抱くようになることなども考えられるようになりました。そんなことが意外と、怪談話などに興味を覚えるようになるのだと、今更ながら気づいています。
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『奥の細道』
2017/03/30(Thu)
 矢口高雄著 マンガ日本の古典 『奥の細道』 を読みました。

 書き出しの欄外に
 ≪月日は百代の過客にして 行きかう年もまた旅人なり 舟の上に生涯をうかべ 馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして、旅を栖とす≫
 としていますが、本文では、
 ≪後の世に「俳聖」とよばれる松尾芭蕉が、門人曾良を伴ってみちのく行脚に出たのは元禄二年(西暦1689年)3月二十七日(新暦五月十六日)のことであった。いわゆる『奥の細道』機構である。この年芭蕉四十六歳、曾良四十一歳・・・≫
 とあります。
 マンガですから勿論『奥の細道』のままを期待していたわけではありませんが、それにしても、これは『奥の細道』の解説書といっていいと思えます。
 そういう意味では、『奥の細道』ってどんな作品なの? とか、そもそも俳諧って何? とか、それを書いた芭蕉ってどんな人なの? というところから、いちいち説明されているので、私たちのように、茶の間の楽しみに読むには程よく楽しめます。丁寧に描かれた絵で、情景を楽しみながら、すんなり江戸時代のはじめころにタイムスリップして、リアルな旅を体験しながら、それを『奥の細道』という作品の中には、どのように表現していったのかを、著者矢口高雄の追体験との比較によって解説していただけるという願がったり叶ったりの作品です。
 さいごの「あとがき」では、マンガというジャンルで楽しんでもらえるには、ということを考えて41歳の曾良を20歳代くらいに見えるように書いたり、綿密な取材によって、芭蕉の真髄を、一コマ一コマの絵にこめることによって、文章ではあらわせない情景を絵によって理解を深められるようにしたことが述べられていて、著者の芭蕉像が楽しめます。
 著者の矢口高雄も、芭蕉に惹かれていて、曾良の記録にはあって、『奥の細道』にはないもの、『奥の細道』にはあってこの作品にはないものなど、構成上のフィクションととらえることができる表現についての工夫も学んでいるのが伺えます。

 芭蕉が、何度も推敲を重ねることの大切さをまわりの人に述べています。
 有名な
 ≪閑かさや 岩に沁み入る 蝉の声≫
は、はじめ≪山寺や 岩にしみつく 蝉の声≫で、つぎに≪さびしさや 岩にしみこむ 蝉のこゑ≫とかわり、最後があのようにかわりました。
 ≪五月雨を あつめて早し 最上川≫も、最上川の急流を舟で下って、涼しでは生ぬるすぎると感じて、≪五月雨を あつめて涼し 最上川≫ から変えてあのような生き生きした俳句になったということで一気呵成には名句も作れないようです。
 蕉風の俳句は、目に触れ心に感じたままの風情を素直に表現することだ、ともありました。  
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『万葉集』
2017/03/29(Wed)
 根本浩著 面白くてよくわかる! 『万葉集』 を読みました。
 (株)アスペクト 2010年の発行です。
 表紙には、美しい日本語で紡がれる和歌を学ぶ大人の教科書 面白くてよくわかる!『万葉集』と明記されていますが、まったくそのとおりで、楽しく納得しながら読むことができました。

 1章の、知っておきたい『万葉集』の基礎知識では、≪万葉集は、629年から759年までの約130年間に作られた歌を集めた日本最古の和歌集です。≫からはじまって、そのなかを、4期に分けて説明されていくことが記されています。

 2章では、その第1期として、舒明天皇が即位した629年から、壬申の乱が起きた672年までとし、大化の改新や近江遷都、壬申の乱などの激動期が続いています。
 代表的歌人は舒明天皇・中大兄皇子(のちの天智天皇)・大海人皇子(のちの天武天皇)・額田王・間人皇后(はしひとのこうごう)などで、ほとんどが皇族、または皇族の身近にいる人など、身分の高い人でしめられています。
 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る      額田王

 3章では、第2期として、壬申の乱から平城遷都が行われた710年迄で、天武・持統天皇が治めた安定期で、第1期の皇族から宮廷歌人、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・大津皇子・大伯皇女(おおくのひめみこ)・志貴皇子・高市皇子・穂積皇子などを中心にして、みずみずしく力強い歌が読まれています。
 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ     柿本人麻呂

 4章では、第3期として、平常遷都後から山上憶良が死去した733年までで、この時期、山部赤人・大伴旅人・山上憶良・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)・湯原王(ゆはらのおおきみ)など、官位や役職などとは関係のない自由な気持ちで、多彩な歌風が花開いた時代だと述べられています。
 この世にし 楽しくあらば 来む生には 虫にも鳥にも 我はなりなむ 大伴旅人

 5章では、第4期として、山上憶良死去後から、大伴家持によって最終歌が詠まれた759年までとし、政争の多い政情不安な時代の中で、大伴家持・中臣宅守(なかとみのやかもり)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・笠郎女(かさのいらつめ)などの、世を反映し繊細で観念的な歌がおおいとされています。
 風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづろひ・・・・・(風まじりに雨が降る夜、雨まじりに雪の降る夜は、どうしようもなく寒いので、堅い塩をつまみながら・・・・・)                   山上憶良
 塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬そ爪づく 家恋ふらしも    笠金村

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『子どもの宇宙』
2017/03/28(Tue)
 河合隼雄著 『子どもの宇宙』 を読みました。
岩波の新書版386で1987年の発行です。
 「子どもの宇宙」とは大きい題をつけたものと思うが、これも、子どものもつ世界の広さと深さを何とか読者にお伝えしたいという気持ちから、と述べられていますが、十分すぎるほどにそれに答えられていることに重さを感じます。
 大人は目先の現実に心を奪われるので、自分のなかの宇宙のことなど忘れてしまい、その存在に気づくことには 案外恐怖や不安がつきまとうようでもあるが、あくまでも、この広くて深い子どもの宇宙に、開かれた教師の態度が必要なことを忘れてはならないことをのべているので、指導書としての書物のようですが、自分の子育ての至らなさなどから、自分自身がクライエントとしても読んで考えることができです。
 ⅠからⅦまで、子どもと家族・秘密・動物・時空・老人・死・異性と題して、子どもが、成長してゆくなかで、いろんな問題が心のなかに起こってくるとき、これらのものが、それらの問題をのり越えるうえで、どのような役割を果たしているのかが考察されています。
 それらとの関係をとおして意外と乗り越えられていると感じられる事例を、童話や、児童文学や、臨床の研究発表などを例にあげて詳細に解説してあります。
 子どもと家族ということでは、子どもが実は家族のなかでよけいものだと感じたり、憎まれっ子だと感じたりして、家出を決行したりすることについて、このことが自我の目覚めや、アイデンティティにかかわるものであることがあり、そして、そんな出来事が、家庭を変革させることがあることを述べています。
 子どもと秘密でも、秘密を持つことは、他者がいなければ秘密が成り立たないといったことから、他者と自分という意味で、やはり、自我の目覚めや、アイデンティティにかかわるものであることがあるようです。
 子どもと動物では、≪犬は母親代理として、彼が暖かい土の匂いのする愛を与えてくれたが、また一方では、彼の分身として出立に当たり彼が克服しなければならなぬ反面を背負って死んでいったのである。人格の変化には、常に「死と再生」の主題がつきまとうものであるが、その死の部分を犬が引き受けてくれた、とも言うことができる。≫、抜粋の一部なので、これだけではわかりにくいとも思いますが、時間をかけて解決されていく状況が記されているのです。ここで、さらに、克服しなくてはならない課題を持っている子どもに≪「よくしてやろう」とする善意によって急激で極端な改善を願う心の背後には、相手の死を願う気持ちが潜在しているとさえいえるかもしれない。≫とも述べられ、最悪を見つめてのきびしい助言です。              
 子どもと死では、子どもと死について想起されることに、明恵上人が13歳で「今は早13に成りぬ。既に年老いたり」と、自殺しようとしたときのことが書かれています。これは、よくそのとき考えていたことを思い出してこのことに当てはめてみると、思い当たる人もあるのではないかとおもわれて、あるいはそんな自殺もあるかなと思われます。
 それぞれの課題ごとに、たくさんの児童文学作品が紹介されていて、そのように視点を変えてあらたに読めそうです。


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『良寛の四季』 
2017/03/22(Wed)
 荒井魏著 『良寛の四季』 岩波書店2001年発刊を読みました。
 みどりさんから贈っていただいていた本でしたが、このたび、近所のKさんに、お貸ししようと手に取ったので、ついでに読み返しました。じつは、短歌や、俳句以外は何も覚えてなくて、改めて短歌や俳句の力を感じます。
 読み終えて、過去ブログを読み返し、みどりさんからのコメントの 「人の心の奥底に潜むものは、ひとくくりでは言えませんね」が、このたびの読書からの感想に近い気がして、仕事をやめたことで、自治会の役員などの雑用はあるものの、読書への力の入れ込みが深くなったように感じられました。

 2000年3月から2001年4月まで毎日新聞に連載されたものだということです。良寛の四季それぞれの生活ぶりなどから、その人間性を具体的に浮かび上がらせることへの狙いが、書いている途中から、良寛の経歴などわからない部分が多く、その謎解きに追われ、探っていくと突然霧の中に閉ざされて、結局は良寛の「人生の四季」そのものを描くことになってしまいおおく加筆したと著者もあとがきで述べているように、ある意味では、読みにくい本だったかもしれません。
 それならいっそのこと、良寛の生い立ちからくる人間性を求めず、彼の作品を楽しんだほうがいいのではとも思いますが、作品をできるだけ深く味わいたいと思うのでやはり、そうはいっても、著者と同じ思いをしてしまうのかと思わされる本です。
 構成は
  春の章 越後の里へ
  夏の章 母と父、そして出奔―その謎に迫る
  秋の章 書と詩歌と―五合庵での創造
  冬の章 良寛の思想―三人の師、そして貞心尼

 春の章では、著者が、良寛の晩年を暮らした新潟県分水町の国上山(くがみ山)の中腹にある国上寺から、10分ほど下ったところにある五合庵の頃、乙子神社、などの句碑も訪ねて文学散歩をします。
夏の章では、春の章でも、疑問だらけだった良寛の出奔の謎に迫ろうと、これまでの良寛に関する資料や研究書を中心に考察してゆき、18歳で出奔、22歳で光照寺で国仙に会い出家剃髪するまでの空白の4年間が、良寛の人間性のベースを解く鍵ではないかと結論付けています。
秋の章では、やはり、備中・玉島の円通寺から故郷越後へ帰り、此処での書や詩作などについて述べてあります。書については生存中から偽者が出回っていたということです。
冬の章では、貞心尼との楽しい晩年が描かれています。
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『無意識の構造』 (3)
2017/03/18(Sat)
 なんだか読書がすすみません。
 こんなときは、しっかり地元仲間に入っていて、裏山散歩をしたり、お寺参りをしたり、親戚付き合いや、元の職場の仲間に誘われるままに、少し出かけてお茶をしたり、食事をしたりしているように思います。
 『無意識の構造』、一応はどのページも読み終えているような気もしますが、私の思考の弱さでは、すっきり頭に入ってきません。 このように、人間ひとりひとりの無意識を構造的に捕らえるということは、無意識の現れ方が人それぞれであるだけでなく、地域的、あるいは歴史的に違うのですから、大変です。

 そのひとつの例として、「浦島太郎」の話があります。
 小泉八雲は、もともと日本人ではありませんが、「夏の日の夢」と題して、日本の民話である「浦島太郎」の話をもとに日本人が読んでも違和感なく読める美しい作品を残しています。
 この「浦島太郎」をソ連の学者チフトフが自分の孫に話してやった体験を述べている話があります。
 ≪チフトフが竜宮城の美しさを描写したところを話しても、孫はぜんぜん興味を示さず、なにか別のことを期待している様子であった。そこで、彼は孫に何を考えているのかをたずねた。
 「いつ、そいつと戦うの?」
 というのが孫の答えだった。彼は竜宮城にいる竜と主人公の浦島の戦いが始まるのをいまかいまかと楽しみに待っていたのである。
 英雄が竜を退治し、そこに捕らわれていた乙姫と結婚をする。このパターンは西洋の場合、よほど小さい子どもの心にも定着しているのである。「浦島太郎」では、竜との戦いがないばかりか、浦島と乙姫が結婚したのかどうかさえ定かではないのである。・・・・ともかく、このような昔話が存在していること自体、ソ連の子どもたちにとっては不思議で仕方ないことであるだろう。≫
話を聞いている子ども達が、無意識のうちに期待しているものにこんなに開きがあるのには驚きます。
しかし、河合隼雄は、ユングの心理学の核心といえる元型について述べていきます。
 元型は、無意識内に存在するものとして、あくまで人間の意識によっては把握しえない仮説的概念で、これの意識内におけるはたらきを自我イメージとして把握したものが元型的イメージだといいます。この元型と元型的イメージの微妙な違いを把握することがとても重要なことのようでした。ここでの乙姫についてのイメージでは著者の著書、『母性社会日本の病理』で、詳細に述べられているとのことでした。
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『無意識の構造』 (2)
2017/03/15(Wed)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を引き続き読んでいます。
 1月は、裏山散歩を、よく休みましたが、2月は所用が多い中でも歩くように努力しています。今朝、下山がいっしょになった近所のAさんと話していると、「仕事の失敗をしてしまったりだとか・・・・、悪い夢をよく見るので、夢を見なくできるような薬がないかと思うのだが・・・。」と言われます。私よりずいぶん年上で、もう仕事をやめて何年にもなっています。いつもは、植物の名前を教えてくださったり、歴史の話をしてくださったりなのに以外でした。もしかしたら、出会いがしら、私が奥様は調子はどうですか?とお聞きして、あまりよくないといって奥様の体のことを話されました。そんな会話のあとだったからかな、などと思いつつ、夕刻、手が空いたのでこの本を読みました。
 しばらく読んでいると、「夢」について書かれてあるところに出会います。新書本なので、ごく簡単にとはあるものの、読むほうからすれば丁寧に書かれてあると思えます。
 もちろんどんな夢でも、解釈はいろいろ考えられるようです。このように、見たくない夢を見るというのはどうしてでしょうか。おこがましくも、Aさんの夢について夢判断ができるのではないかと思えるほどに丁寧です。
 夢の分析の話をすると、自分はほとんど夢を見ないという人がいる。私もそうです。しかし、夢分析をはじめると、ほとんどの人が夢を見るものだと述べられています。一般に夢というものは記憶しがたいものなので、夢分析という動機付けがない限りあまり覚えられないのが普通で、分析家と被分析者の人間関係が夢の分析を進ませていることは事実であると思われるとあります。
実際夢を見ていないのかというと、まず、現代では、睡眠中、REM状態のときに夢を見るという研究がされていて、一晩でだいたい一般に5度くらい、REM期があり、5回くらい夢を見ているようです。夢を見そうだ、という状態が始まると同時に起こすことを続けて5日やっていると、起こさなくなると、急にたくさん見るのだそうです。
 もともと、精神病や精神分裂症の人の治療のための臨床心理学だと思えるのですが、Aさんは、精神病や精神分裂症ではありません。それに、Aさんが、日ごろ悩みを抱えているにしても、健やかな生活を送っておられるように見受けられて、人並みに悩みを自分の胸のなかで、それなりに処理されておられるように思えます。
 とりあえず、今朝の会話を思い出してみると、どうしてこんなに世界中の人が大量殺人をするような戦争をしなくてはいけなくなったのかについて困ったものだという話がありました。まず稲作をするようになって、食料が保存できるようになったところから、子どもがたくさん生まれるようになり、人口が増えすぎたからですかね、などというと、うん、稲は連作をいとわないというのが大きかったね。と言われます。なるほど、ほとんどの作物が連作を嫌うのに、稲は連作を嫌わないということに改めて気づかされました。このような思考回路がAさんに子孫など将来への不安を思っての夢だと結論いたしました。これはもしかすると、客体水準の解釈に順ずる解釈といえるかもしれません。。


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『無意識の構造』 (1)
2017/03/14(Tue)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を読みました。1977年中央公論の新書版481の発行です。
 読み終えるのに、とても難しくて、時間がかかっています。
 何のために読んでいるのかわからなくなるようなときもあったりして、気をとりなおしてまた読み始めるといった具合です。
 なかに、小泉八雲の「勝五郎の再生」の、再生譚に関連した興味深い記述があるので、引用しておきます。
  ≪「私」というものは不思議なものである。誰もがまるで自明のこととして「私」という言葉を用いているが、われわれはどれほど「私」を知っているだろうか。インドの説話に次のような話がある。・・・・・・・・この話は「私」ということの不可解さをうまく言い表している。ここでは体のことになっているが、たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない。しかし、そのようにして、自分にそなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに「私」というものが残るのだろうか。それは、らっきょうのように皮をはいでゆくと、ついに実が残らないものではなかろうか。われわれが精神病の人たちの話をきくと、ときに、彼らは自分と同じ人間がこの世にもう一人存在していると主張したり、自分は××の生まれかわりであると確信したりする。 これをわれわれは異常なことと感じる。自分というものはこの世に唯一無二の存在であり、過去にも未来にも同じものは存在しないと確信しているのである。ここに「確信」という言葉を用いたが、実際これは積極的に「確証」することが難しいことである。われわれは確証なしに、これらのことをむしろ自明のこととして受け入れている。
  ここに「われわれ」という主語を漠然とした形で用いたが、実のところ、この「われわれ」には相当限定を加えなければならない。というのは、現在においても、輪廻転生を信ずる民族や集団も相当存在するからである。われわれ日本人にしても、そうとうの長期にわたって輪廻の思想を受け入れてきたのである。
 近代人は合理的科学的な思想に基礎をおき、輪廻の考えを拒否している。それに基づく数々の迷信を笑いものにすることもできる。しかし、近代人にとって、「私」はどこから来てどこへ行くのか、というのは厄介な問題である。近代の先端をゆくアメリカにおいて、「私」の根(ルーツ)を探し求めることに異常な関心がむけられているのも、まことに興味深い。「ルーツ」はあくまで外的な根を探すことに焦点づけられているが、そこに、「私」という存在の基礎を知ろうとする内面的な問いかけが象徴的にはたらいていると考えられる。・・・・≫
 この本では、≪自分は××の生まれかわりであると確信したりする。≫ということをどう結論付けているかを知ろうとすると、そのことだけを頭において読んでいかないと、それなりの結論を見出せない気がします。以後注視して読み進みます。
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『ある英語教師の思い出』 ㈡
2017/03/12(Sun)
 稲垣巌が京都の桃山中学に勤務していた、昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまでのあいだの、大きな出来事のひとつに、昭和9年9月21日の室戸台風上陸がありました。
 この室戸台風では、死者・行方不明者3036人という大被害をもたらしました。京都府下では、倒壊27校、それによる死者70余名(内職員4名)、桃山中学校でも、死傷者はなかったものの、木造2階建ての1棟(18教室)が全壊するという甚大な被害をこうむり、そのほか平屋建もみな半壊、備品もほとんど使い物にならない被害を受けました。
 午前8時10分が1時間目の授業開始時間。全員が着席して、授業が開始されました。午前8時25分頃が最大暴威だったため、以後の15分間の避難が、生死を分けます。その、15分間の避難行動について、3者の記事があります。ひとつは、光家元正教諭が『昭和9年9月21日の風害記念号』のなかに、「風害について」という題で学園の惨事を詳細に記録されているもの。それに対して、当時中学生だった編著者の小野木重治氏の体験とそれへの思い。稲垣巌の桃山中学校の「金城会」発行の『桃山』第28号(昭和9年12月28日)のなかの、「死線上に立つ」と題しての記事です。
 この3つの記録を読むことで、15分後には全壊することになる校舎で、いつもどおり、整然と授業を受けようとしていた500人の生徒と教職員のそれからの避難のようすを、かなり立体的に把握することができます。
 若くて元気な男の子、高学年はもう立派な青年とはいえ、恐怖心の強弱は人それぞれで、巌は
 ≪・・・いきなりしがみついてきた傍らの一生徒を反射的に抱きしめながら私は青い血潮が一時に頭に上がるような気持ちを味わった。一同は畏怖に圧倒されて、群像のように一瞬沈黙したが、その顔は悉く灰のように白ちゃけていた。「講堂が壊れたんだろうねえ」誰やらがへしゃげた声で呟くと、熱に浮かされたような別の声が早口で答えた。「いや違うよ。第二教館が倒れたんだ。此処から見えたよ」・・・≫
 次の指示が来ないので、恐怖におびえながら、じっと指示を待つみんなのつぶされたような思いが伝わってきます。
 稲垣巌のこの「死線上に立つ」の避難時の臨場感あふれた描写は、八雲の「生き神様」とおなじように、自然災害に対する教訓として、あらためて身の引き締まるような思いで読みました。
 このような災害のときでも、平行して、日常的な苦しみや悲しみもあります。
 稲垣巌は、この災害の起こった9年の1月にたまたま京都に来た医者である義弟の(妻のミドリの弟)種市良春によって癌を発見され自宅で手術をうけたとあります。6月には、妻のミドリが、不和から青森の実家に子どもを引き連れて帰っていきました。さらに、9月にも京大で手術を受けていました。夫婦ともに癌による生命への不安からくる精神の不安定さに、義弟の理解が深かったことが、その後の話からうかがい知ることができるのが救いでした。

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『ある英語教師の思い出』 ㈠
2017/03/11(Sat)
 小野木重治編著 『ある英語教師の思い出』小泉八雲次男・稲垣巌の生涯 1992年11月、恒文社発行を読みました。 
 タイトルのある英語教師とは、小泉八雲の次男で、稲垣家の養子となった稲垣巌のことです。彼は31歳の昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまで京都府立桃山中学校で英語教師をしていました。桃山中学は大正10年創立で、中学は5年生で卒業だったようで、ちょうどきりよく、昭和1年の卒業生が第1回卒業生ということになり、第4回から第17回卒業生までの約3000人が稲垣巌に学んだということになるということです。著者の小野木重治は、桃山中学の第13回卒業生として、昭和10年に週に1~2時間のわりで1年間、稲垣巌に学んだ生徒でした。
 この本の制作にあたり、稲垣巌が亡くなって50年もたっていることから、資料収集にずいぶん手間がかかったようです。それだけに本をめくるごと、よくぞ残してくださいましたの思いが篤くなっていきました。
 タイトルから見て、稲垣巌に学んだ生徒のまなざしから見た彼について知りたいと思い、第一部の第4章からは、第二部を先に読むなど、興味に任せて楽しく読めました。
 同僚であった松井清人「稲垣先生の思い出」に、稲垣巌が語ってくれたという、父親の小泉八雲との秋の終わりの散歩のときの話がありました。
 読んでいるうち涙が出てきました。
 「巌、あそこに何か花が咲いているようだが、何の花かな見てきなさい」それを見て、「これは、ちっぽけな、けちな朝顔の花だよ」と思わず足蹴にしながら父に告げたとき、八雲は、けしからんと巌を今まで見たこともないような形相で叱りつけ、「巌、よーく見てごらん。この殺風景な枯草の中に、この朝顔の花が一輪咲いているから、どんなに美しいことか。この辺りを和やかにしていることか。巌、いっしょにこの花を拝もうよ」といっていっしょにひざまずいて合掌し、さらに、地生えして、遅ればせながら咲いて、自分の生命を守り、自力でなんとか生き抜いて、この一隅を明るく照らしていることについて語り、再度二人して合掌したという話です。
 父子の会話については、巌の「父八雲を語る」に、「巌は遊んでばかりいるから悪い。これから少しの間勉強するほうがよい」というのは「イワホ、タダアソブ トアソブ。ナンボ ワルキ、デス。スコシトキ ベンキョ シマセウ ヨキ」という具合です。巌はこういった父の言葉のはしばしから思いを汲み取り、さらに、巌がそのことを同僚に語るころには、思えば、この朝顔もおぼろげにしか見えなかったであろう父が、誰の援助もなく、自分の生命を守り、自力でなんとか生き抜いて、その一隅を明るく照らしていてくれたことを心に深く感じていただろうと思えます。
 珍しく稲垣先生が父小泉八雲の思い出として、テニスの試合の後、宿直室で一服、四方山話にしたっているとき、その教訓を心の宝としていたことを熱っぽく語られ、このときのお話は、今でも私の心に深く焼きつき刻み込まれているとの美しい記述でした。


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『宮島・伝説の愛と死』
2017/03/08(Wed)
 西村京太郎著 『宮島・伝説の愛と死』 を読みました。
 これは、テレビでおなじみの、十津川警部と亀さんが、犯人を捕まえるというミステリー小説です。
 東京で一乗寺多恵子という45歳の女性が殺されました。同居の一人息子が大学から家に帰って殺されている母を発見。
 母親は、末期がんであと3ヶ月しか持たないとの告知を受けていました。どこか行きたいところがあったら連れて行くというと宮島に行きたいというので、そうすることにして、母親がその準備をしている矢先の出来事でした。
 一乗寺多恵子の夫は、一乗寺渉という作家でしたが、売れるようになるまで、ずっと多恵子が生活を支えていたのに、ようやく売れ出すようになると女を作ったので、離婚したのでした。
 息子の女友達が、彼が疑われているので犯人を見つけようと誘ってきて、二人でなにか犯人の手がかりがつかめそうな宮島に行きます。もちろん十津川警部たちも宮島へ捜査に行きます。
 実は多恵子は、結婚する前年の20年前、宮島から東京の大学に進み就職していた真田浩介という人と付き合っていました。宮島に一緒に行ったとき、二人とも船から海に落ちて、多恵子を助けようとしているうちに浩介が溺れてしまって亡くなるという事故に遭遇していることがわかってきました。浩介はその2年前に広島県議会議員の副議長でしかも老舗旅館を経営している木下雄一郎の娘との見合いの話があり断っていました。気に入っていたのに断られた娘はその後鬱病になり2年後に自殺してしまいました。その県議会議員の副議長は、興信所を使って真田浩介について付き合っている女性がいることを調べあげ、女性がいるのにお見合いをするのは詐欺だといって真田家に怒ってきたこともありました。
 結局、この木下雄一郎が、政治家になりたいという野心を持つ真田浩介を殺していました。そのことがばれないために多恵子に500万の金を渡していたのでした。
 そのことを知っていた県議会議員二代目の息子の木下勝郎は、自分の当選以来そのことがばれることを気にして、多恵子のその後の行方などを興信所で調べていました。そして、近く宮島へ旅行する計画があることをマンションの管理人から聞いて、多恵子を殺害をしたのでした。
 テレビで見ていたら、きっと途中早々に寝てしまって犯人を知ることはなかったでしょう。
 ところが、本で読んだので、解決までこぎつけることができました。
 めでたし、めでたし。の読書でした。
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第199回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/03/06(Mon)
 会に出かける直前、居間に掃除機をかけていて、机を動かした瞬間パソコンの無線受信する何とか言うものにもうひとつの机の脚があたってこわれ、インターネットが受信できなくなるというハプニングが起こったのですが早めに参加できました。

 次の「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、第200回という記念すべき会になるので、稲垣巌氏のご子息である、稲垣明男氏を迎え「八雲の住んだ海外の跡地を訪ねて」と題する講演を聞かせていただき、奈加靖子氏のアインリッシュ・ハープ演奏が聴かれるということで、楽しみにしているのですが、迎えることに骨折ってくださっている風呂先生はとても忙しそうで何も手伝えないことに申し訳なく思っています。
 そのぶん、稲垣巌氏のことや稲垣明男氏についてできるだけ、予習をして、話されることがより理解できるように努力しておこうと思います。

 このたびは、浮田先生の「アイルランドを巡る20日間の旅」の発表がありました。
 スクリーンに説明つきの映像での発表で、初めて知ることになるアイルランドの国のいろいろな名所・旧跡の説明をものめずらしく見せていただきました。アイルランドといえば緯度も北海道よりは高い。不毛の地というイメージしかないけれど、そこにも人間の生活が紀元前もっと大昔から連綿と続いていることを改めて認識します。飢饉によって多くの移民をだしたりするのは当然としても、その移民した人の中に『風と共に去りぬ』のスカーレットの父親がいて、農園の名前をアイルランドのタラとしていたことを知りました。『風と共に去りぬ』のタラの印象は深くて、これを見て育った私たち世代が必要以上に土地への執着を強くしたのではないかとも思うのはわたしだけでしょうか。
 イギリスでの宗教については、ピューリタン革命という言葉しか知らず、ハーンのキリスト教嫌いというのは、もしかしてアイルランド人がプロテスタントに反発するがゆえのカソリック原理主義のような現象があったのではないかとも想像してしまいました。
 それにしても英語が堪能な浮田先生だからこそ、このような有意義な旅行が可能で楽しみを満喫されたのではないかと思えるとてもいい報告でした。

 小泉凡氏の「ケルト人と出雲人」では、その類似点への考察を読んで、アイルランドのケルト人に親しみを持つことができます。若くして浅野図書館の近くに住んでいたころ、歴史小説や自然主義文学を好んでいて、どちらかというと怪奇文学的なイギリスの文学を避けていたことがありました。しかし、河合隼雄の本を読んでいて、人間の深層心理についてだんだんに考えるようになり、こういった文学に興味を持てるようになっているや先だったので、ずいぶん興味深く読めました。もちろん小泉八雲の怪談話などにも違った感じで味わっている自分に少し満足しています。
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『華の人』
2017/03/02(Thu)
 伊藤緋紗子著 『華の人』 を読みました。
 この作品は、北海道旭川に生まれ、東京の女学校に学び、大恋愛の末、九州佐賀県有田に嫁ぎ、30歳で亡くなった実在の人物深川敏子の半生を描いたものです。
 敏子は、明治38年(1905)北海道旭川で、井内歓二・加代の六男七女の四女として生を受けます。大成小学校から、庁立旭川高等女学校を経て、大正11年(1922)東京に嫁いでいた12歳年上の姉・喜美子を頼って山脇高等女学校の家事専攻科に二年の予定で移ります。
姉の喜美子は、東京帝大理学部卒で霞ヶ浦の海軍航空隊の研究所に勤務する野田哲夫と結婚して不自由のない生活をしており、敏子はそこから女学校に通うことになります。
 野田哲夫の腹違いの弟の陸男が、当時のモダンガールの先端を行くような敏子の美しさに憧れ、恋心を抱くのですが、気後れして、おなじ慶応義塾大学の剣道部の主将で八段の友人深川進を紹介します。
 進と敏子は、お互いであったその日から惹かれあうようになり恋心を燃やすようになり喜美子や陸男にも喜ばれ、デートを重ねます。
 進は、九州佐賀県有田の、パリ万博で金賞の栄誉に輝いた名門窯元深川製磁の社長深川忠次の長男でした。
 進が結婚をほのめかせたとき、敏子は「もしも東京で二人で暮らせたら・・・」と言ったのに対して、進は何が何でも結婚したい気持ちが先走って、「僕は深川製磁の東京支店長になるから、それは可能さ」と答えてしまいます。進は父親の忠次に敏子を紹介しますが、忠次は欧米諸国を見聞していることもあって、敏子に好意を持ち喜びます。
 そして、大正13年敏子は進と忠次に迎えられて有田の深川家を訪ねます。東京への帰りを送ってくれた進と神戸で一夜を明かし妊娠してしまいます。進は父親から、本社勤めをするよう言われたことは敏子に言えないでいました。妊娠がわかるや、進と敏子の為に陸男があちこち走り回って、結婚にこぎつけます。
 しかし、進の母親のモトは、九州から初めて華族の家に住まわせてもらって華族女学校に入学、英語も習得していましたが、佐賀出身で、武士道といふは死ぬ事と見つけたりの葉隠思想を受け継いだ家庭に育ち、嫁に容赦はなく、進の愛は変わることはありませんでしたが、なにしろ国内外の仕事が多く、優しかった忠次も亡くなり、敏子はモトの厳しさに苦しんで、3人の男の子を残して30歳の若さで亡くなるのでした。
 

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『獄中からの手紙』 ㈡
2017/03/01(Wed)
 NHKテキスト100分de名著『獄中からの手紙』を読んで、約1か月が過ぎようとしています。
 テレビでもこの放映を見ました。
 このところのNHKの100分de名著は、テキストを読みっぱなしにしてブログへの記載をしていないこともあって、この『獄中からの手紙』もよみっぱなしにしていたのですが、なににつけても、頭から離れないというのが正直な感想です。
 何かにつけて考えていると、頭の中でだんだん抽象化されて、すでに㈠に書いたことなどの、根底にある部分で、(キリストのことはあまりよくわからないのでさておいて、人知れず、ガンディーのように生きた人がいたかもしれませんが)ガンディーが考えて行動を通しての生涯は、私にとって人類未踏の普遍的な生き方だったのではないかと思えます。
 欧米諸国の近代化への対応として、日本は追いつけ追い越せと、欧米から必死で学んで、近代化への道を進みました。ラフカディオ・ハーンや、夏目漱石など、あるいは、12月のやはりNHK100分de名著で取り上げられた『野生の思考』を著作したレヴィ・ストロースなど、多くの人たちが、この近代化への進み方に疑問を呈してきました。
 しかし、だからと言って、ではどういう生き方がいいのかということを徹底してやって見せた人はいないのです。
ガンディーは、植民地支配をするイギリスだけが悪いのだろうか、イギリスがもたらす近代文明を甘んじて受け入れ手放そうとさえしないインド人にも問題があるのではないのか。一人イギリスだけが悪いのではなく、インドにも問題がある。その問題を解決しないで独立することは、第二のイギリスを作るだけだと考えて、むしろ自分自身の自己統制によって、近代化の問題に打ち向かっていくのです。しかも、打ち向かう相手に対しても愛をもって、一緒に歩むことの意味を提唱するのです。
 この生き方、これは、昨年の3月16日にブログに乗せた、佐々木閑著『100分de名著 ブッダ最後のことば』を思い起こします。そして、3月26日の「高校教科書のなかでの宗教」にも関連の記事を書きましたが、ブッダが、人間が本来生きていくべき姿への実践のためのインストラクターであったことと、二重写しになるのです。では、今の私たちはどう生きるべきかについて、最後の3ページをつかって著者が思いを示しています。
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『獄中からの手紙』 ㈠
2017/02/27(Mon)
 中島岳志著 100分de名著のテキスト『獄中からの手紙』を読みました。
 『獄中からの手紙』とは、ガンディー(1869~1948)の書いた手紙のことです。
 ガンディーは、インドの独立を導いた人です。

 もともとガンディーは、なに不自由なく育ち、悪いとは知りながら、肉を食べたり、たばこを吸ったりしていました。そして、弁護士の資格を取るためにイギリスに行き、イギリス紳士になるためにダンスやバイオリンを習ったり流行の服を追い求めたり、インドにおいてきている妻子がありながら、別の女性の気を引いたりしていました。
 弁護士の資格を取得してインドに帰っていると、南アフリカから弁護士の依頼が来たので、ビジネスチャンスとばかりに出かけます。弁護士になってイギリス人と同等の地位を得たと思っていたのに、南アフリカでひどい差別を受けたことから、ここでは当然のごとくインド人が有色人種として差別を受けていることを知り、政治に目を向けるようになるのです。
 差別の問題を考えていて、この根っこが人間の欲望であることに気づきます。そこで、まず自分の欲望を去る決心をします。そして、真の文明とは、需要と生産を増やすことではなく、慎重かつ果敢に欲望を削減することだと考えるようになり、その考えを一般の人たちに届く言葉や行動で示していくようになります。
 7年、南アフリカにて、アジア人強制登録法、8歳以上のインド人に対し指紋の登録を義務化し違反者には罰金などを科すというのに対して、インド人はこの法に従わないと登録証を燃やします。罰せられても暴力で反抗しないで、牢屋に入ります。他のインド人もこれにならい牢屋はインド人であふれ、ついにイギリスが譲歩してインド人は人権を取り戻します。
 インドに戻っては、1919年独立運動の指導者となりローラット法に反対し、一斉休業を行います。
 1930年イギリスが塩の製造を禁止していたことへの抗議運動として夢暴力を胸に「塩の行進」を始めます。海岸まで380㎞歩く間に多くの人が集まり、数千人規模で塩を作り始めます。塩は当時はイギリスの専売であったため、ガンディーは逮捕されてしまいます。
 塩は人が生きていくうえで不可欠のものです。ガンディーは、それを得るのは人間の真理だという信念を持っていたのです。
 投獄され、修行場(アーシュラム)にいる弟子に送った、ヒンドゥウ教に基づく生き方の心得を書いた手紙が1933年に『獄中からの手紙』として出版されたのです。

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『岡山の夏目金之助(漱石)』 ㈡
2017/02/26(Sun)
岡山で、亡くなった兄の義姉の嫁ぎ先である金田の岸本家滞在中、瀬戸内海の幸に遊んだことや、義姉の実家片岡家滞在中に洪水に巻き込まれたことを、子規への手紙に
≪実に今回の大水は、驚いたような、面白いような、恐しいような、苦しいような、種々の元素を含み、岡山の大洪水、又、平凸凹一生の大波乱というべし。…≫と書いて送ったように、漱石が岡山で経験したことは、この本をとおして漱石にとって捨て置かれることではないことを知ります。
 漱石が水害に遭ったときの地元の人からの話を読むと、漱石の性格がよく表れているように思います。
いち早く危険を察知した漱石は23日の午後9時頃、とにかく自分の荷物をまとめて、さっさと避難します。避難から8日目の8月1日どこからともなく滞在先の片岡家に帰ってくるのです。   
 あいだで片岡家の人と出会えなかったために、濁流に飲み込まれたのではないかとずっと心配されていたのでした。家の片づけを手伝わなかったの、散々心配しただのと苦情も言われます。
 しかし、これが末っ子の思考回路の特徴のひとつと思えます。
 私もそうしたかもしれません。
 まず、猫かわいがりはしてくれるけれど、家にとって大切な存在だと思われてはいない。そうなると、特技はただひとつ逃げ足の速さです。
 掘り出し物のエピソードとして、水害に遭う前、義理の姉の再婚先から、越中褌だけをまとって一人で大蛤を拾いに出かけ、10っこ余りも掘り出し、入れ物がなくて褌に包み素っ裸で帰ったという報告もありました。
  廉孫が、漱石について語った部分の引用があります。
≪教場での先生は厳格な、八釜しい、皮肉な先生と一部の生徒には映じていたでしょう。…≫とあるところ、近年、インターネットで情報を得るようになって、湯浅廉孫らのように可愛がられた人とはべつに、当時の教え子からのエピソードでは、藤村操の自殺が、漱石に授業でひどく叱責された直後だったためにそれを原因とするような記載に出合ったことがあったので、この引用が、気になりました。
 内田百閒は、ここでは、あまり触れられていませんが、映画『まあだだよ』をずいぶん昔見に行きました。また『続 吾輩は猫である』は、私は読んでいないのですが、夫は、それを読んで、ずいぶんおもしろかったと教えてくれたことがありました。

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『岡山の夏目金之助(漱石)』 ㈠
2017/02/25(Sat)

 横山俊之著・熊代正英編著 岡山文庫280『岡山の夏目金之助(漱石)』―岡山逗留と愛弟子廉孫― を読みました。
 このたび、風呂先生からいただいた本です。

 文庫本ですがしっかりした用紙で写真満載です。
 岡山では、明治25年、漱石25歳のとき帝国大学文科大学英文科の学年末試験をおえて、7月7日からの夏期休業を利用し、松山に帰省する正岡子規とともに初めて関西方面への旅立ち、神戸からは一人で岡山にきたときのことと、漱石にゆかりの深い湯浅廉孫のことを顕彰する事業の成果を、この岡山文庫280で発表しているようです。さらに、岡山大学では「池田家文庫」にひきつづき、湯浅廉孫の「湯浅文庫」の整理もすすめているということです。
 子規と神戸で別れる10日、岡山へ着く7月11日から、岡山を去る  8月10日までの漱石の足取りへの探索は、相当なページをさいて、まるで、松本清張の推理小説『点と線』を読むような綿密さでなされています。読者は写真や地図や、乗り物の時間表をもとに実地検分をせざるを得ないほどです。
 岡山でのことは、私たち年代の漱石の愛読者にとってどんなにか新鮮な研究と思えます。私たち年代の読者が、気軽に漱石を買って読んだ時代の手元の単行本を取り出して、その中の漱石の年譜があるものを何冊かざっとみてみました。
 ≪1892(明治25)25歳。5月、東京専門学校講師となった。夏、子規と京都から堺に遊び、松山に子規の家を訪れ、高浜虚子と知りあった。10月「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」を発表した。≫ が定番で、あと北海道に移籍したこと、「哲学雑誌編集員になったこと、『老子の哲学』『中学改良策』論文があるのもあり、やっと江藤淳の『夏目漱石』に、「一人岡山滞在」があるだけでした。

 漱石があとで岡山から子規のところへ行くのに、ここで一人岡山に向かったのは、夏目家家長代理として、兄嫁小勝の実家片岡家へいき、亡くなった兄の養子先である臼井家から片岡家への戸籍の復籍と、小勝の再婚先である岸本家への再婚祝い、臼井亀太郎と竹との婚約など、法的手続きと慶事のために出かけたのでした。
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お寺参り
2017/02/22(Wed)
 今日は四丁目の浄土真宗報恩寺というお寺にお参りをしました。
 何しろ観光ではなくて、葬式や法事以外でお寺にお参りに行くのはおおかた50年ぶりくらいです。
 一人暮らしで、体が不自由な知り合いの人が、電話してこられました。お寺にお参りしたい・・・・。あー、一緒に行ってほしいのだなと思って、夫に車で送ってもらってのお参りでした。
 正面からすこし左側の一番前の席が取れたので、ラッキーでした。しかも、講師の方の真ん前でしたので聞き取れない部分がずいぶんありましたが、どうにか行事についていくことができたように思います。
 まず、仏教女性会で、昨年亡くなられた3人の方のために、「仏説阿弥陀経」を全員で称えます。私も持参した輪袈裟を首にかけて、数珠を手に、「仏説阿弥陀経」を唱えました。立派なお堂に入りきれないほどの参拝者です。読経の声が響き渡りました。
 そのあと、仏教婦人会の心得のようなものを、全員で読み上げられたり、『御仏にいだかれて』を全員で歌ったり、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、わららが今度の一大事の後生御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。・・・・。」の「領解文」を読み上げたりして、法要が続き、最後に女性会会長の挨拶がありました。

10分の休憩をはさんで、

 湯来町西法寺吉崎哲真師の法話でした。
 「苦悩の有情」ということについての法話です。
 ここでの「苦しみ」は、「自分が思うようにならない」こと、とまず定義されました。たとえば、けがをして苦しむというのなどは除外されてのお話のようです。
 苦しみを四苦八苦に分類します。四苦とは、生・老・病・死のことで、八苦は、生・老・病。死に加えて、
  愛するものと別離すること―愛別離苦(あいべつりく)
  怨んで憎んでいる人に会うことをいう―怨憎会苦(おんぞうえく)
  求めるものを得ることができないことの―求不得苦(ぐふとくく)
  肉体が思うままにならないこと―五蘊盛苦(ごうんじょうく)
をいうとのことでした。
 これらの苦は情があるから苦となるのです。情がなければ、ただの現象で、楽なのです。苦と楽はセットで、反対のものに目をそらせて生きているだけなのです。とのお話でした。四苦八苦は仏教用語だったのでした。
 本堂の柱に、美しい字で、
    み仏の み名を称ふる わが声は わが声ながら 尊とかりける
                                       とありました。
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『最後の秘境 東京芸大』
2017/02/21(Tue)
 二宮敦人著 『最後の秘境 東京芸大』―天才たちのカオスな日常 を読みました。
 ここでは、音楽部門で指揮者を目指す学生に聞いた話についての部分についてです。
わたしの場合、特に耳の手術以降聞こえは悪く、さらに受け止める音波が異常になっているので、音楽が本当はこんな音ではないのだろうなと思うし、もともと音楽がわからないのでほとんど聞かなくなりましたが、この本を読んでいて、聞き方を変えて聞いてみようと思うことができそうです。
音楽は呼吸だというのです。指揮者の本番での仕事は何か?ということで、
≪「オーケストラを物理的に助けるのが仕事になります」物理的、の言葉には、まるで外科医が傷口を縫うようなニュアンスがあった。
「なかには合わせにくい、難しい曲もあるんですよ。小節ごとに拍子が細かく変わってしまう曲とか。そんな時、たとえばホルンが落ちるとしますよね。あ、落ちるというのは、リズムがわからなくなって演奏がとまってしまうことです。その時、ホルンに教えてあげるんです。指や表情、目で『今、ここだよ』と伝えるんです。そうして復帰させる」
もちろんそれは演奏の真っ最中。指揮者は振りながらの作業だそうだ。≫
そうやって全員で海を渡りきる。交響曲という海を、呼吸を合わせて泳ぐ。ピアノ奏者もピアノで大切なのは呼吸。音楽はもともと歌から始まったので、歌でいう息継ぎみたいなものがピアノでも必要で、息継ぎがない演奏は聞き苦しくなってしまう。管弦楽の人も音楽の流れに合った呼吸をして、音楽の表情を作っていき、楽器とも、仲間とも、お客さんとも一体になって呼吸をしなくてはならないといいます。ここまで読んでいくと河合隼雄の、『おはなしおはなし』のなかの「鼎談」と「指揮者」の話を思い出します。
彼は、鼎談は難しい。ところが、見事な鼎談を聞くことができた。として、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの三重奏の演奏がまさに理想的で調和的な鼎談をしていて、聞いていて、不思議だったのが、さらに形を変え、作曲者、演奏者、聴衆、三者の鼎談に発展してきて対話の質も変わり、活気を帯びて立体化してきたことを感じた経験を述べていました。
 「指揮者」では、オーケストラを聴きにいって、エドガー『交響曲一番』は、威風堂々と進んでいくような艦隊のように聞くことができたが、武満徹氏の『オリオンとプレアデス―チェロとオーケストラのために』を聞いたときときは、
≪その艦隊の上に、すーと飛んできた一羽のかもめの命が、艦隊よりも重みを持っているように感じさせたり、艦隊を浮かばせている海のきらめきが急に焦点づけられたり、艦隊も空気も、何もかもが、そのときどきの流れに従って、卒然として輝いたり、重みを持ったりする。こうなると、この全体を「統率」することは、連合艦隊総司令長官をもってしても難しくなるのではないか。・・・武満さんの曲はエドガーのように中心に一人の人間を立てる曲とは異なるのである。≫とすこし音楽の妙味にふれられ、日本の音楽は古来指揮者なしで演奏してきたので、こんな演奏も今後・・・などとあり、あんなふうに聞くのだと思いました。
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第198回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録 ㈡
2017/02/20(Mon)
風呂先生は今回のニュースでは、雪は人を親切にすると書かれています。
 本当にそうかもしれません。私の団地は南抜きの団地なので雪解けは早いのですが、もともと風呂先生のお宅よりもっと北で、積雪が多いです。朝、外に出てみると、私の家の前の雪がいったんきれいに取りのけてあり、その上からまた少し積もっている感じでした。わたしは、あと積もった雪とお返しに近所の雪かきもやりました。そして雪かきのスコップが壊れたという友達の手伝いをして、そのあと近所の高齢で一人暮らしのご婦人のうちの雪かきをし、大汗をかきました。いつも車で来られるホームヘルパーさんが歩いてこられ喜んでくださったので、大汗をかいた甲斐もありました。とんでもない積雪のおかげでみんなが心を通わせることができました。
 「勝五郎再生記」についての説明がありました。輪廻転生からくる再生といえば、ダライ・ラマを思い起こします。やはりなかなか信じられないのですが、信じることで、自分を取り巻く他人、自分を取り巻く自然、ありとあらゆるものへの慈愛の気持ちがもてるなら、より人生を深く生きていくことができます。そんなことを考えさせてくれる話なのだと思えます。 
「飛行」の説明もありました。11月のハーンの会での井野口慧子氏を迎える予習で、飛行について考え、自分は飛ぶ夢など見たことがないと思っていましたが、そのことを忘れてしまったころ、自分が飛び降りる夢を見ました。何だかそんなに高くもないところから飛び降りる気になったので、いざ飛び降りようとすると実は高い崖の上で下は海、まるで東尋坊です。ところが実際降りてみると、そんなに高くなくて、柔らかいぬいぐるみの感触のような床にとんと降りたのでした。さっそく夫に話すと大笑いされましたが、じっと心に思っていれば案外夢に見るのではないかと実感した人生初体験の出来事でした。
 1月11日の中国新聞の切り抜きのコピーの添付については、加計家から発見された蠟管の声が再生できないと書かれてあることについてあとで風呂先生に、「NHKで再生するというのをやって声が出ましたよ」と言ったのですが、帰っていっしょにテレビを見た夫に話すと、「音は出たけど、劣化がひどくて聞き取れなかった。骨相学から声を復元する人がいてその人が作った声が流された」と述べました。やはり再生できなかったようです。蠟管から、「せんだって、僕が学校へ行くのは学生に教えるためではない、飯櫃の足しにするために出かけるのだと言った」という言葉などが聞き取れるようになるのを楽しみに待つことにします。
 そしてやはり、2月18日の中国新聞では、「漱石と広島」というタイトルで大正13年新設の広島高等学校(広島大の前身の一つ)の初代教頭で赴任してきた大谷繞石(正信)と漱石との関係に触れてあります。
 19日、夫と孫の発表会のために広島へ出ましたので、そのあと、厚着のため、汗を浮かべる夫を誘って繞石の句碑の前に立つことができました。
  広高の 森の東風にも 子らの声     繞石先生に添削をお願いしました。

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第198回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録 ㈠ 
2017/02/19(Sun)
 2月18日(土)久しぶりの青空に映える道を「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 開会の挨拶では、寺下さんが、自分の翻訳したウォーター・ラッセル・ミード著 『神と黄金』の「書評」が掲載されている本を示して、現今のアメリカ大統領のありようなどへの思いを話され(あまり聞こえなかったのが残念でしたが)、その本をみんなに回してくださいました。
 あとで回ってきたその本を斜め読みしてみると、著者が池内恵という人だったように思うのですが、アングロアメリカは、一度も負けたことがない。そのキリスト教の国に対して、イスラム国が反発を強める図式について書かれてあるように思えます。キリスト教にもたくさんの分派があるが、イスラム教にもいろいろ分派があり、それぞれの共通点も多々あることも書かれてあったように思います。あるいは、ただもともとキリスト教国が理論的で正義を標榜していて、世界の中心的存在をなしているのはなぜ?みんな考えてみて!といったように両者の歴史や立場を今一度検証してみる必要があるのではないかと提議している本かと読み取っていきました?
 リベラルという言葉の解釈がキリスト教は、キリスト教のそれぞれの宗派は違うところもあるけれど、その違いを認め合って、やっていくことだとあり、仏教では、みんな同じ仏教の中のそれぞれ違った部分だからと寛容的なことをいうと、この前読んだ100分de名著のテキスト『獄中からの手紙』に書かれてありました。イスラム教ではどのように理解するのでしょうか。マルクス主義の国が崩壊して、代わりにイスラム国が反発を強めたのはどうしてでしょうか。
  ガンディーは、宗教は真理を求めながらも、もともと人間から生まれたものだから、どのような宗教も完全なものはない。でも真理を求めることについては同じなのだから、真理を求める巡礼とか断食による「行」によってつながろうとしました。
 レヴィ=ストロースは、歴史による進化「未来に向かって発展していくことによってパーフェクトなものが人間の前に現れるというのは幻想である。もし、そんなものがあるとしたらそれは人間の希望的夢想である。十九世紀の欧米で確立され、その後人類に大きな影響力をふるってきた「歴史」と「進歩」の思想が、いま私たちの思考にかさぶたのように覆いかぶさってきているが、そのことは現代の世界に危機をもたらすともあるといった考えが頭の中で勝手に錯綜していました。
 とりあえず、イスラム教やイスラム国について私は何も知らなさすぎるので、思いがわけのわからない方向へと飛躍していったのです。
 いろいろ最近読んだ本から考えたのですが、実際には、寺下さんが訳されたふたつの“G”『神と黄金』とはどんな本なのでしょうか。
 この記録が、開会の挨拶だけで横道にそれてしまいました。

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『水の女王』
2017/02/18(Sat)
中村真一郎 著 『水の女王』を読みました。
 昭和38年(1963年)、彼が45歳のときの作品です。
 河合隼雄の「二十一世紀のおはなし」というエッセイの中に、中村真一郎の『王朝物語 小説の未来に向けて』という作品が取り上げてありました。
 ≪それでは二十一世紀のことを考えるのに、どうしてわざわざ古い物語を取り上げるのか、ということになるが、これについて中村さんの考えをごく簡単にいうと次のようになる。十九世紀に生まれた「純粋客観主義」の小説が行き詰ったところで、二十世紀になると、人間の内界を探索しようとする、いうならば人間の「無意識界」を問題とするような小説が生まれてきた。そして、二十一世紀には「人間の魂の全体と社会の全貌」をとらえるような「つくり話」が生まれてくることになるが、そのヒントを王朝物語が提供してくれるというのである。≫
 とこのようにです。
 私は、とりあえず中村真一郎の我が家にある彼の作品で一番短いもの『水の女王』を読んでみました。

 なにはさておき、とにかくびっくりしました。
 この作品は、いまマレーシアで死亡したとして、毎日報道されている北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄の金正男氏を主人公にしたような「おはなし」でした。
 この「おはなし」は、若い王が、兄の帝の住む都から、はるか東の川下にある自分の居城に帰っていく途中の心境を語っているのです。
 冬を迎えるに食料にも窮する自分の小さな領国に向かいながら、自分がどうしてこのように仲のよかった兄から、いつ殺されるかわからないという恐怖におびえるようになったのか。いったいいつから疑われるようになったのか、を自問自答するのです。父の帝が、人前をはばからず、兄に位を譲ろうか、それとも自分にしようか、能力を競ってみろ。などというところから、自分の周囲にも家臣団が取り巻くようになり、自分の友人も自分を王位につけようと策略を弄し始めたことが兄の取り巻きの家臣を刺激し、自分と兄との間が冷たくなったのだ。と思うところから、武勇で知られた王が帝である兄に暗殺されるのを見聞きしたことなどを思うにつけて恐怖に締め付けられるのです。
 自分は、父が捕虜として奪った敵の一族の妻に思いを寄せたことがあった。父はその女性を兄に娶わせることで勝利の快感を味わった。二人の子どもができていたが、自分が思いを寄せていることがわかると兄は女性を殺してしまった。あの世に行ってしまった女性を思い慕うことで、今を何とか持ちこたえるのに精一杯の気持ちで自分の国に向かっていくという話ですが、切羽詰った心情を現す表現が独特でした。
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『おはなしおはなし』 ㈡
2017/02/17(Fri)
 どのエッセイひとつ読んでもなんだかすごいなと感じさせられます。と先に書きました。㈠では、最初のエッセイだけで終わってしまったので、それでは寂しい気がしてもう二つ。

 著者について、どうして京大の理学部を出た人が心理学などをやっているのだろうと不思議に思っていました。
「ただ座っていること」では、それへの疑問に答えてくれます。卒業後数学の教師をしていたが、教師自身もなにか学んでいないと堕落してしまうといわれてやはり京大の大学院(旧制)で心理学を学んだことが書かれています。こんな立派な話ではありませんが、じつは私も就職してから臨床心理学の聴講を始めていました。ところが講義に出てみると先生はほとんど出張で、教室では幼児教育学科の学生が、順にテキストを読むようにといわれていて、まじめに端から順に一人ずつ立って読み上げるのです。途中読めない漢字に行き当たると全員で年上の私を見るのです。仕方なく読みをいうといった状況で講義時間が終わります。1年で行かなくなってしまったのですが、さすが後に明恵に傾倒するようになる人だけあって、著者はそのようなことやいろいろ困難はあったでしょうが世界的な臨床心理学者になられたのです。数学教師としては、一生懸命指導したが特別生徒の学力がついたというのでもなかったそうで、いま思えば「ただ座っていること」のほうが大事だったというのが主旨でした。

 「公案としての子ども」では、兵庫教育大学大学院での講義の話でした。多くは実際に現場で働いている人たちの学生へ向けての講義だったそうで、深い講義が成立する場面での話です。
 子どもがすぐにバレるような盗みを働いたことを、禅のように「公案」として、考えることによって、子どもは自分の悩みを誰かに気づいてほしい、誰かに聞いてもらいたいが話す勇気がないので、無意識のうちにすぐにバレるような盗みを働いたのではと気づき、そっと呼んで子どもの話をきいてみると、誰も知らない悩みを打ち明けその話を聞いてやることで子どもは気持ちが軽くなってゆき元気を取り戻す機会に恵まれるかもしれない。
 禅の場合常識的な答えをいうと老師に「喝」とやられる。大人の常識的な判断ではなく深くさまざまな方面から考えてゆく。意識的にやったことだとすれば、常識的に考えての原因が考えられるかもしれない。しかし、無意識のうちにやってしまったとしたらどうだろう。
 子どもの問題行動を「考案」のように深く考えてみては、という話が聞けるとは・・・。
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『おはなしおはなし』  ㈠
2017/02/16(Thu)
 河合隼雄著 『おはなしおはなし』をしんしんと雪の降る夜読みました。これもさきの『河合隼雄の幸福論』と同じようにエッセイです。
 ただ、タイトルも表紙の装丁もかわいいのです。
 いつも、高校生が読んでもわかる言葉で書きたいとありますが、ほんとに辞書を引くこともなくほんわかと読めます。このことが、専門の人だけでなく広くよく読まれることにつながると思えます。しかし、どのエッセイひとつ読んでもなんだかすごいなと感じさせられます。

 読み始めるとすぐ「明恵三題」として、明恵の話があります。
 『明恵 夢を生きる』が版を重ねて広く読まれていることをうれしく思っていると、これが英訳されて写真も多く立派な本に出来上がったことと、西川流の西川千麗さんが、この本を読んで、「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようは)という舞を舞われるとの知らせがきたという、明恵によくあった共時性が自分にもおこったことの喜びから始まっていますが、「そんなことで喜ぶようではたいしたことないよ」と明恵に言われそうな気がしたと終わるところが河合さんらしいと思えます。
 この河合さんらしいというのは、あれだけ強い意志を持って仏教の教えを守った明恵に心酔するようになったといいながら、読者にはどのエッセイを読んでも、心理学療法士として守るべきこと、あせらない、押し付けない、じっと聞いて待つ、決め付けない、などこういった姿勢を守っておられる筆遣いが伝わってくることです。まさに「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようは)ということを胸に秘めておられると感じられてすごいなと思えるのです。

 この共時性ということひとつをとってみても、結構誰でも経験していると思えます。Aさんのことを考えていたら偶然Aさんから電話がかかってきたというようなことはよくあります。しかしこんなことがなぜ起こったのかというようなことを深く突き詰めて考えるようなことはめったにありません。しかしこのことを考えることが何かにつながると思えるようになるのです。

 『明恵 夢を生きる』も、ずっと読んだときにはここまで考えた記憶がないのですが、というより考えても及ばなかったのですが、今回ずっと深く考え込んで夢を見ることについて考えていたからでしょうか、読んだあと夢を二度見ることができました。しかも、見た夢について目がさめてから考えることができました。
 どんな人との出会いでも、出会った人の体と心と魂についてじっと深耳を傾けることのできる人だからこそのエッセイだと感じました。
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「おしどり」
2017/02/15(Wed)
 小泉八雲著 平川祐弘訳 「おしどり」を読みました。
 『怪談』の中に収録されている短い作品です。
 諸兄那香編訳 小泉凡監修 『小泉八雲の“怪談”で英語を学ぶ』と、田代三千稔訳『対訳ハーンⅠ〈怪談・奇談〉』も家にあるので、三人の訳で、それぞれ1回ずつ三回読みました。
 短い作品なのでこんなことをして読んだのですが、昨年暮れの『広島ラフカディオ・ハーンの会』で朗読してくださった詩人の井野口慧子さんの朗読を思い描きながら読みました。

 尊充がある日、狩りに出かけます。その日は獲物がとれず、仕方なく帰りかけると川にオシドリがいました。おなかがすいていたのでこれを射ると、雄のほうに命中し、早速もって帰って調理してたべて休みました。すると夢に美しい女性が現れ、どうして罪もないあの人を殺したのかと、泣きながら、さらに自分は生きていられないと恨み言をいい、あす朝川に来るようにと言い残して消えます。朝起きて川に出かけると、雌のオシドリが岸に近づいてきて尊充をみつめて、自分のくちばしで自分の腹を割いて死んでしまいます。尊銃は髪をそって僧侶になるという話です。

 尊充という名前については、この平川祐弘訳では、このような漢字を当てて訳してあるのですが、ハーンはローマ字書きでSonjŌ とあるので、訳すにあたって、いろんな漢字が当ててあります。諸兄那香編訳 小泉凡監修 『小泉八雲の“怪談”で英語を学ぶ』では馬充となっており、日本語版原典では馬充(うまのじょう)となっている、とわざわざ注意書きがあります。田代三千稔訳『対訳ハーンⅠ〈怪談・奇談〉』では孫充となっています。この話は『古今著聞集』のなかの一編によったものと注釈がありますので、この訳者がみた『古今著聞集』ではそのような漢字が当ててあるのかもしれません。

 ハーンは欧米の読者に向かって、「オシドリ」に注釈をつけて、昔から東アジアでは、これらの鳥は夫婦の愛情を象徴するものだとみなされている。と書いていますが欧米では見かけられない鳥だからだそうです。

 ハーンは、昔から、日本では夫婦仲がいいといわれて夫婦愛の象徴のように言い伝えられて、仲のいい夫婦を「オシドリ夫婦」ともいわれていたことを知っていたでしょうか。あるいは、この話を聞かせてくれた人から聞いたでしょうか。夫を追って死んでいった雌のオシドへリの後追い自殺を、自殺を禁じているキリスト教の人たちにどう伝わったでしょうか。
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「米良、椎葉の山奥で」
2017/02/13(Mon)
 宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代 巴監修 『残酷物語二』のなかの「米良、椎葉の山奥で」を読みました。
 昨年秋の暮れ、九州への旅で椎葉村を訪ねました。その時、なぜ平家の落人が椎葉村にのがれてきたのかという疑問がわきました。
 この記録には、「口碑によると」としてそれへの説明がありました。
 ≪壇ノ浦で滅びた人たちがこの山郷を知りここへおちてきたのは、肥後の菊池氏の心からなる援助であったといわれる。もともと菊池氏はその祖先を大宰府弐藤原隆家に発していた。寛仁3年(907)刀伊の賊の来寇にあたってよく防御し、そのまま九州に定住した。・・・源平合戦のときには平氏にぞくし菊池隆直は一ノ谷以来よく奮戦して平家に尽くした。しかし、ついに平家滅亡の悲運にあい、故郷に帰って家を固め身をかためて、滅亡をまぬかれた。この菊池の背後に、五箇も椎葉もかくまわれていたのである。≫と書かれています。寛仁3年(907)は、1019年のまちがいだろうと思います。この菊池氏についての興亡が椎葉村に住む落人の行く末にも多大に影響することもあって、詳しく書かれてあり、直前に読んだラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ろくろ首」にでてくるヒーローの僧侶が、もと菊池氏の家来の侍だったのでつい興味もわいて熱心に読めました。
その、平家の落人たちが、山深い世界で息をひそめて暮らしてゆくなかで、中央勢力の流れにも影響を受けつつ、内部抗争によっ てつらい歴史をたどったときのことが書かれています。
このように記録しようと思うと、口碑ということのせいなのか、時代の流れと話がかみ合わないと思えたりして、何度か読み返して、自分なりに、土地の人が聞き伝えてきたことの本意をくみ取ったのですが自信がありません。そして作者が、あるいはのちの人が、米良地方と比較して、やりかたによっては、ここまで内戦をしなくても暮して行けたのではないかということの結論に到達することで、ご朱印状や権威、太閤検地への恐怖が、世間に知られない山の奥地で暮らす人たちそれぞれへどのような影響を与えたのかの一例を知ることになります。
 椎葉村では、南に伊東氏、島津氏、西に相良氏などがいる中で、那須祐貞の4人の子ども左近と九郎右衛門は小崎、弾正は向山、将監は神門にいてあい助けて山中を統一していて椎葉三人衆と呼ばれており、なかでもご朱印状を取り付けるほどの豪胆な弾正に、検知に協力をさせようとの中央の思惑もありながら、その息子久太郎の代になると、重い課税を課して住民に恨みをかうようになり、悪巧みにあって父子ともに殺され、それ以後検知のための役人に対応できるものがおらず、中央への反発とみられ多くの人の命が奪われていきました。それ以後、結局幕府の直轄領となったということでした。
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『河合隼雄の幸福論』
2017/02/12(Sun)
 河合隼雄著 『河合隼雄の幸福論』を読みました。
 安佐北区民文化センターで、交通安全協会の研修があったのでついでに図書館に立ち寄りました。明恵で検索したのに、不思議とこの河合隼雄の『河合隼雄の幸福論』と、『おはなしおはなし』が表示され、この2冊を借りました。
 
 でもこの本は、私のカウンセリングになりました。
 ほんとうにリラックスできました。
 彼の本は何冊か家にもあるような気がするのですが、このように自分がカウンセリングを受けた気分になったのは初めてでした。
 結局幸福というものは、人によってみんな違うし、この本によって自分はもしかして取り越し苦労ばかりしているのではないかと、気づかれる人も多いのではないかと思えます。
 ともあれこの本はよく読まれていて、1998年(平成10年)5月に初版が発行された本が市場になくて、息子さんの河合俊雄氏が2014年にPHP研究所から装いを新たに発行されたもののようでした。
 なかに「カルチャー・リッチ」というお話があります。著者もこの言葉は最近アメリカに行ったとき初めて聞いたということで、
 ≪アメリカの人たちが今、文化差ということに非常に強い関心を持っていることを感じた。これまでは、どうしても欧米中心という感じがどこかにあったが、現在は自分たちと異なる文化についてよく理解し、それを尊重することによって自分たちの生き方をより豊かなものにしてゆこうと考えるのである。このような態度は、これまで無視し続けたともいえるアメリカ・インディアン(ネイティブ・アメリカン)の文化に対して、特に顕著に感じられる。≫
とあり、「文化と心」について論じるシンポジュームで、自分を含め3人が論じたということでした。
 ご自分ははじめてアメリカの土を踏んだときの自分のカルチャー・ショックの体験を交えながら日米のものの考え方の差について話しをした。
 続いて、グーリンベルグ博士はアメリカのクリスチャンたちのなかでユダヤ教徒として生きてきた体験をかたり、片山京子さんはアメリカ人を父とし、日本人を母として日本に育ったこと。日本で混血児として育つことの苦しみ、そして、どのようにして自分がアメリカに来たか、そして、父親に出会うことができたかを語られた。
 これらのことは、個人の体験を深めることによって普遍的なことを見出す。個より普遍に至る道がある。文化差をはっきり認めてお互いに得るところがある。このようにして得られるものが「カルチャー・リッチ」ということだそうです。
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