「等伯慕影」
2018/01/06(Sat)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 長谷川等伯の話です。
 等伯の絵についてのテレビ番組を見てまだ日が浅く、ワクワクしての読書となりました。

 小説では、長谷川等伯は、「永徳翔天」で、狩野永徳が豊臣秀吉に用いられるようになってから、登場してきたので、そのつづきのような気持ちで読め、さらに、絵の特徴が両者と、さらに時代はもっと下がりますが「乾山晩秋」の尾形光琳とも比較でき、その違いを知ることで、それらの特徴をより鮮明に感じることができました。

 長谷川等伯が帯刀信春と名乗っていたころ、竹田信玄の肖像を描いて、褒美に多くの碁石金を絵を頂戴します。
 織田に戦いを挑み続けられている朝倉家から密使として、前波伝九郎・長新左衛門らとともに反織田同盟への武田の参加を求めて雪深の中を越前から甲斐までやってきて描いたのです。
 ≪「義景殿は、父上の肖像に朝夕、香を炷き、武運長久を祈願いたしたいとのことでございます」≫とのべ、ここで書き、それは献上して、帰ってからも書くということでした。しかし、信春だけが飛びぬけてもらったので、他のものが帰る途中で取り上げて信春は遭難ことにしようとしたことから、一人で逃げます。逃げる途中も狙われて散々な思いをして妻と息子の松家に帰ります。それでも狙われるので京に家族で逃げます。

 京に出て16・7年目、長谷川等伯と名乗るようになって、大徳寺三玄院の襖に無断で絵をかいて、なかなかの出来栄えに評判がよくそのことを聞きつけた利休に見初められ、大徳寺山門の彩色を頼んだのです。それも気に入って、新内裏の対屋の造営に際して、その彩色をすでに狩野永徳に決まっているのに、前田玄以に推挙したのでした。ここの部分が「永徳翔天」の内容と重なる部分です。

 結局、狩野の方が人脈が強く、仕事は狩野に取られてしまいます。しかし、直後狩野永徳は亡くなり、以後は等伯に仕事が来るようになっていきました。
 自分よりは才能があると認めた長男の久蔵が若死にして、無念の気持ちは深かったのですが、画業はさかえ、豊臣が徳川に変わり、等伯71歳で江戸幕府に招かれて江戸に下って二日目で亡くなりました。

 そのあと一年半後二男の宗宅も亡くなり、宗也、左近が次ぐことになるが江戸時代、狩野派ほど振るわなかったのです。

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「永徳翔天」
2018/01/05(Fri)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 狩野永徳の話です。

 1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛15代して将軍に据え、それまでの京での権力者、三好・松永に代わって、信長が猛威をふるい始め、狩野源四朗がそれまで関係の深かった五摂家で先の関白だった近衛前久の屋敷を焼き払うといったところから話が始まります。
 狩野永徳は、そのころ狩野源四朗と名乗っており、26歳です。
 幕府御用絵師の父親の松栄のもとで、水墨画の技法に大和絵を取り入れた技法で、工房は、扇面工房が主流だったようです。

 織田信長の乱暴な屋敷の焼き払いの現場で、遊郭の遊女で源四朗の馴染みの夕霧が、非難めいたことを大声で言ってしまった源四朗の袖を引いて遊郭に連れていき、そこで待っていた近衛前久に会います。前久は石山本願寺の顕如を頼って大阪に行くと告げ、朝廷に復帰するのはそれから7年後でした。そのとき、前久に以前納めた、屏風絵や、襖絵をまとめて運び出した小姓がいて、それが織田家中の美しい万見仙千代だとほかの遊女から聞かされます。
 その現場では、狩野家の敵対の絵師である朝廷絵所預の土佐光元にも出合いますが彼は織田信長の家臣羽柴秀吉に仕える武士になっていました。土佐家は、泉州上神谷に千石の知行を持っていたため織田信長に安堵してもらうためでもありました。そうなると、幕府からの絵の注文も来なくなる不安もありました。
 父親の松栄は、源四朗に家督を譲って、豊後の大友宗麟を頼って九州に下ります。1570年に戻ってきて、翌年、今度は源四朗が大友氏の居城に行きます。
 1573年4月には信長は将軍足利義昭を京都から追放し、万見仙千代の推薦があってのことか、12月にはその信長に源四朗は拝謁します。、源四朗は、10歳の時、絵師としては名高かった祖父の元信に連れられて13代将軍義輝に引き合わせられたこともあり度胸は据わっていました。信長からは「これからはわしのために励め」との言葉をもらえます。
 そして、安土城を飾る絵をすべて描くことになります。絵への注文は空を飛翔するような絵ということです。安土城が出来上がったときの≪壁一面の金箔、魚子の飾り金具による唐草模様、組み入れ合天井が豪華を極め、高麗べり、繧繝べりの備後畳が青々と続くことが家臣たちの目を驚かせた≫のなか、備後畳では、先ごろ読み終えた『理勢志』に語られる備後畳、やはり日本一だったのかと思わされます。
 信長亡き後、ひきつづき秀吉に用いられます。また諸大名からの依頼も多く、疲労から1590年、このところ、千利休に気に入られてのし上がってきた長谷川等伯にとってかわられることを憂えながら、48歳で亡くなります。
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『乾山晩秋』
2018/01/03(Wed)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 を読みました。
 2008年12月初版発行、2014年5月9版発行の文庫本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本『山月庵茶会記』・『さわらびの譜』・『この君なくば』に続く読書です。

 この作品は葉室麟の最初の作品で、歴史文学賞という賞を受賞したという作品です。 そして、彼の作品では初めて出会う短編です。この文庫本にはその他4編の短編が掲載されているのです。
 また、この作品は、わたしが葉室麟の作品に初めてであった『花や散るらん』の印象が深かったために、その作品の扇の要に思える部分がある作品でした。
 『花や散るらん』は、忠臣蔵を扱った作品です。
 赤穂浪士の討ち入りが、その後忠義の士として美しく忠臣蔵となって語られるほどにやり遂げられるには、誰が演出し、どれだけの経費がかかったのかというところをとらえて書かれているともいえます。ほかでもない尾形光琳が演出し、彼の支援者だった銀座役人中村内蔵助から資金が出たとのことが、四十七士を花と仕立てたのです。

 正徳6年(1716)6月2日に尾形光琳が享年59歳亡くなり、そのとき深省54歳から話は始まります。
 葬儀から数日後、乾山は親しい右京太夫と甚伍と3人でお茶会をし、その時、甚伍が少し前、商用で江戸に行ったときに聞いた噂話をします。14年前の赤穂浪士の討ち入りに絡んだ話として、どういったいきさつと人脈によって討ち入りのためのお金が用立てられ、光琳好みの装束で、討ち入りを果たすことができたのかが、延々と語られるのです。
 延々と語られたこの部分が、省略されて、『花や散るらん』が、忠臣蔵を語るのです。

 乾山が、≪「どうやら、わしは、この年になって兄さんのまねがしたくなってきた。兄さんは狩野探幽に勝とうと思うて、江戸にいかはったんや、と思う。そして、江戸から帰りはった兄さんは見事な紅白梅図を描かはった。わしにも、まだできることがあるかもしれん」≫と江戸に出たのは69歳でした。
 乾山は江戸で寛保3年(1743)81歳のとき光琳と同じ6月2日に亡くなりました。乾山の焼き物をみて、もいちどこの作品を読めたらと思います。
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『この君なくば』
2018/01/02(Tue)
 葉室麟著 『この君なくば』 を読みました。
 2015年10月初版発行の文庫本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本『山月庵茶会記』・『さわらびの譜』に続きます。
 先の2冊は、茶道、弓道という道・術という極める境地に心を据えて学ぶことのある作品でした。しかし、この本は、幕末の動乱期を描いた作品です。
 この時期の、多くの作品は、その動乱を起こした人、それを阻止しようとした人など、立場を持った人を中心としていて、維新の道筋が見えていく作品だったのですが、この作品はそのような人たちに情報も予知すらなく揺り動かされていった人たちの不安を描いていると言えます。
 読み終わった後、ほんとうに「動乱期」だったのだなーと感じさせる作品でした。昨日お互い同志だと思っていた人が、今日はその同志を切る。筋を通して生きていると思ってもいつ咎人にされるかわからない。訳の分からな理由がそうさせる。これから先の見通しがきかないどころか今がわからないといった不安の中に脱藩したり、藩の立ち位置もけっせられぬまま戦場に駆り出されたりします。

 そのような時期、桧垣鉄斎の此君堂(しくんどう)で国学と和歌を学んだ楠瀬譲(くすせゆずる)と、鉄斎の娘栞(しおり)の長くかかる結婚までとそれからの苦難の物語です。
 二人の関係を
 ≪此君堂の名は、『晋書』王徽之伝(おうきしでん)にある、竹を愛でた言葉の、
―何ぞ一日も此の君無かるべけんや
からとったもので、〈此君〉とは竹の異称だ。≫
 とあり、「この君なくば」という言葉で象徴させます。お互いがこれくらいの思いがあってこの時代を冷静に生き抜く姿を描いています。
 この読書記録を書きかけて、あれこれ用事ができ中断していました。こんなとき、家事をしながらふと作品について気づくことがあります。
 じつは、薩長土肥は江戸時代、密貿易で苦しい財政をやりくりしていたのです。その藩の富豪の商家は大名貸をするほどの者もいました。そんななか、幕府の開国によって、藩の公易による既得権を奪われることへの内向きの危惧があっての攘夷を主張していた人もいたのではないかと思ったことです。
 その、藩の違いによらず交易にかかわりのあった人となかった人との間にも情勢を見る目に大きな違いがあったことを思わされました。
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『さわらびの譜』
2017/12/31(Sun)
 葉室麟著 『さわらびの譜』 を読みました。
 2013年9月発行のハード本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本です。先の『山月庵茶会記』同様鮮烈な筋立てに一気に読んでしまいました。

 ―岩ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも―
 『万葉集』にあるこの歌が好きだという伊也という女性が主人公です。5歳の時から弓術日置流雪荷派(ヘキリュウセッカハ)を引き継ぐ父親の有川将左衛門から弓術を仕込まれて育ち、藩では女だてらに大和派の樋口清四郎と競うほどの腕前です。

 ―伊也の気性を小説では才気煥発と表していますが、読者にその姿を例えて、岩ばしる垂水の上の萌え出づるさわらびと、この句が使われています。
 だれでもよく知っている歌ですが、私はこれまで、「岩ばしる垂水の上の」という言葉をほとんど意識しておらず、わらびを見始めたころ「さわらびの萌え出づる春になったな」と思って陽だまりを恋しく思っていただけのような気がします。これだけの名歌を、このようにいい加減にしか味わっていなかったことを思うと、気を入れ込んで読まないと、著者の真意が読めとれないのではと、思わされます。―

 妹がいますが、妹の初音はそのような武張ったことはいたしません。
 そんな妹に樋口清四郎との結婚が決まります。この時代、親の決めた結婚に沿うことは至上命令です。しかし、この婚約時代に、ともに弓術を通して生き抜こうとする伊也と樋口清四郎は、常に気持ちが通じあう究極の場面に出合ううちに、お互いの気を合わせる瞬間を感じ取るようになるのです。
 そのことを、家に居候している新納左近は気づいて3人のことをそれぞれ勇気づけるのですが、この左近がいるために、伊也と樋口清四郎は様々な試練に立ち会わされるのです。彼は、実は藩主の腹違いの兄で、父親より、藩にことが起こったときには、彼を藩主に据えるようにと、時の重臣にも言いつけており、彼にも藩を助けるようにと言い渡してあるのでした。実際藩の現況は藩主は江戸にいては遊蕩によって莫大な散財をし、家来は藩主の気を引くためなら武士としてどんな恥ずかしいことでもやってのける悪なのです。それが、藩主を諌めようとする新納左近や伊也の父親有川将左衛門を亡き者にしようと災難をもたらすのです。
 最後は、藩主が伊也の仕掛けられた千射祈願を達成しようと命がけで弓を射る姿を見て自分を反省し、新納左近に藩政を任せ、有川将左衛門を次席家老としそれまでの側近を遠ざけ、新納左近を一門衆に迎える引き出物として望みの初音との結婚を許し、伊也は京都在番となった夫の樋口清四郎と京都に行くのです。三十三間堂の通し矢に挑戦するためでもあります。

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『山月庵茶会記』
2017/12/30(Sat)
 葉室麟著 『山月庵茶会記』 を読みました。

 暮れも押し詰まり、気忙しく正月の準備や片づけに忙しくし、目鼻がついたねと夫がいい、私は枕カバーなどの縫い物がもう少しで・・・とミシンと格闘していたとき、思いがけず、みどりさんから、たくさんの書籍が送られてきました。
 葉室麟の忠臣蔵を扱った『はなや散るらん』を読んでいる最中に、討ち入りの日が誕生日の従妹が亡くなり、悲しんでいたとき、やはり討ち入りの日が誕生日のみどりさんがコメントをくださいました。そのすぐあと葉室麟氏が亡くなられたとのお知らせもしてくださいました。そして、みどりさんのご主人が葉室凛の著書をたくさん読まれているとありましたが、思いもかけずそれらの本をご主人と合意の上送ってくださったのです。
 感激いたしました。それにしてもこんなにたくさん!!と思いましたが、まず大慌てで家事を片付けさっそく読ませていただき、作品に吸い込まれていきました。ご主人が、次々と読まれたというのがよく理解できます。

 ≪柏木靱負(カシワギユキエ)が九州豊後鶴ケ江の黒島藩へ16年ぶりに帰国したのは宝暦二年(1752年)正月のことだった。
靱負はかって黒島藩の勘定奉行を務め、4百石の見分だったが妻を36歳のおりに亡くした。子がなかったため、親戚の松永清三郎を養子として奥祐筆頭白根又兵衛の娘で家中でも美貌を噂されていた千佳と娶せ、家督を譲ると突然、致仕して京に上った。かって江戸留守居役を務めたおりから茶道に堪能だった靱負は、京で表千家七代如心斎に師事し、茶人としての号を弧雲とした・・・・。≫
から始まるこの時代小説は
 茶人として江戸でも有名になった靱負が16年ぶりに帰国した目的が、噂をとがめたために何も言わずに自害した妻への自責の念から、妻の真実を探るためで、そのために靱負は茶会を開いては、旧知の人から話を聞き始めます。靱負のその目的が広まると、彼がそれを知っていくことが、藩の機密が知れてはと、それを阻止するために様々なことが起こります。
 茶の湯の風景や、会話をしっとり感じながら読んでいたのですが、事件の進展に従ってそれどころではなくなって、結局、妻の藤尾が呼ばれていた茶の席で、夜幕府から藩に送り込まれている〈草〉と呼ばれる密偵が殺され、それを病死としていたことが露見されることによって、他にもいるかもしれない〈草〉に知れることで幕府が動くことが危惧されるとことの次第がわかってきます。だれがその〈草〉かもわからず、最後までどうなるのかと緊張して読みました。
 気持ちの引き締まる美しい小説でした。
 みどりさんとご主人様に改めて感謝をさせていただく読書になりました。

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『太田道灌』
2017/12/26(Tue)
 童門冬二著 『太田道灌』 を読みました。
 3か月近く裏山散歩ができない日々が続いていますが、裏山散歩で親しい水野さんが貸してくださった本です。
 この夏、同じく童門冬二著の 『小早川隆景』 を読んだときに、著者の経歴が作品に影響しているせいか大変良かったと話したとき、彼の本なら持ってるよと、童門冬二著のこの本と、『伊能忠敬』を貸してくださったのです。すぐ手にしたものの、なかなか読めないでいたのですが、やっと昨日から読みはじめ、読みだすとつい夢中になって、今朝読み終えました。

 1994年発行の本ですが、童門冬二は、「序」で、なぜ今太田道灌を書いたかということについて、今の時代が、太田道灌の生きた戦国前期の時代に似ているのでと説明しています。 またこの時代のことはどの歴史作家もよけて通る時代であり、その理由として複雑すぎることも述べてあります。道理で、私もこの時代の本を読んでいません。最後に、北条早雲が登場し、やっと私がよく読んだ時代につながるのを感じたのでした。
 それにしても、1994年と言えば今から大方20年前です。細川内閣から、羽田、村山と総理大臣が変わった年でもありますし、今では批判のもとともなっている参議院・衆議院の小選挙区比例代表並立制が施行された年でもあります。さらに、村山氏が自衛隊合憲の所信表明をした年で、広島ではアジア競技大会が開かれ、広島市の西北にある西風新都が脚光を浴びていました。

 まさに、太田道灌の時代も関東は混乱を極めます。

 私はこのたびは、一つのテーマをもって本を読んでみました。その人(この本では、太田道灌)にとって保守とは何かということです。
 足利尊氏が京都室町に幕府を開き、鎌倉に四男の基氏を関東管領におき、執事を上杉憲顕にしましたが、このコンビが関東をよく治め、何代目かにはその実績が京都を凌ようになり、いつの間にか勝手に「管領」を「公方」に「執事」を「管領」にランクアップするなどして、ついには京都の将軍職まで狙うようになり、これを諌めた上杉と足利公方との関係もまずくなることが関東の騒乱のきっかけになります。扇谷上杉の執事として仕えた太田道灌は周りの反乱を抑えるなど実績をあげていきますが、その秀でた能力ゆえに父親からも、扇谷上杉からもその本家の山内上杉からも疎まれ自分の居場所を失うなどのなかで苦しみ、自分は足利幕府の為に生きて働くのだと決意する部分があります。
 なるほど、彼にとっての心の支えとしているこの考えが、周りの人より高いところに据えているがゆえに孤独で、うまくやってゆけなかった部分もあったのかと思わされたのでした。
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『花や散るらん』
2017/12/23(Sat)
 葉室麟著 『花や散るらん』 を読みました。
 虚実混ぜ合わせての忠臣蔵にまつわる小説です。
 松の廊下での事件と、討ち入りについては子どものころから、年末、討ち入りの記念の日前後のテレビ放送などでよく知っていましたが、この小説では、もともとのことから始まり、仮説とはいえ、美しい作品なので、少し熱心に読みました。

 5代将軍綱吉の時代、低い身分の出身とされた家光の側室であった綱吉の生母桂昌院に、朝廷より前例のない従1位が授けられます。従1位を受けるための公家衆への働きかけをするその運動が、事の始まりです。
 綱吉の生母桂昌院に従1位を朝廷より授けさせ、将軍吉綱を喜ばせ、吉綱により取り入れられようとする吉良上野介と、桂昌院と対立している御台所信子率いる大奥、それに、その運動の為に、お金に困る公家衆に貸金をして、自分の意のままにしようとするやり方に反発し、朝廷を重んじる柳沢吉保との水面下の争いから小説は始まるのです。
 貸金に苦しむ貴族にお金の算段をするのが、尾形光琳です。銀主は、京都貨幣鋳造所の役人での中村内蔵助です。小説では、尾形光琳が書きかけている中村内蔵助の自画像を敵に盗まれ銀主がばれるという場面もあります。
 吉良上野介に仕え、京で金貸しをしている神尾与右衛門は武士としては屈強の腕前で、彼を亡き者にするにはと、高田馬場の決闘で名を馳せた堀部安兵衛を召し抱える浅野家しかないと、そのお鉢が回ったのです。浅野内匠頭長矩は幕府から、勅使饗応役を命じられ、柳沢保明からは吉良上野介を切ることを命じられるのです。長矩は安兵衛に神尾与右衛門を切るように命じるのですが、公家衆に無礼を働く吉良上野介のお家に討ち入り首をはねるのならいいが、それゆえ身分軽きを切るというのは卑怯のそしりを受け、大奥の揉め事に端を発したものに他家の家臣を切ればお家の恥ともなりかねないと断ります。長矩はこれ以上いえば安兵衛は腹を切りかねないとの思いからだんだん追いつめられていきます。
 松の廊下で、吉良を打ち取れなかったことは武士として恥辱です。その恥辱をはらすための討ち入りの資金も尾形光琳の助けで進められていきます。
 尾形光琳の思いは、武士として美しく散ってほしいというものです。

 この小説を読んでいる間に、私の従妹が大動脈解離で急に亡くなりました。
 彼女は赤穂浪士の討ち入りの12月14日が誕生日でした。
 18・19日と二日間、通夜と葬儀の為に残雪の田舎で過ごし、彼女の弔いをしました。
 昭和18年に生まれ、20年8月5日、入隊していた父親の面会に母親に連れて行かれて一晩過ごし翌朝、広島駅で被爆しました。
 父親と片方の目を奪われてのそれからの人生でした。
 ケロイドがあっても本当に美しいお姉さんでした。
 その花も散りました。
 そのときの広島・三次間の汽車のキップとその時着ていたワンピースが原爆資料館に預けられていて、私にとってはそれが形見となりました。


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第208回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/12/18(Mon)
 2017年、いつもの年より寒く感じる年の瀬も押し迫った、12月16日。第208回の「広島ラフカディオ・ハーンの会」が開かれました。
 参加者は17人。部屋は10号館10409視聴覚ルームです。
 いつも目いっぱい参加会員に気を配ってくださる風呂先生が、当日はご自分の治療の経過のなかで、座ると超激痛が伴うということで、付き添われた奥様も待機の上、長椅子に横たわって「みなさんに失礼で・・・・」とご自分の姿勢を気にされながら、自分の病気の経緯を話した後、熱のこもった講義をしてくださいました。
 会場の会員も、先生の会への情熱に打たれて、熱心に聴講されています。
 部屋の隅に先生の奥様がおられるだけで、会場がとても暖かくほっとする感じがして、風呂先生はいつもこんな感じのなかで勉強や仕事をされているのかなと思い、そこにこの前、松江で観た狂言『猫と月』にでてくる「福音」を感じました。何だかこんなことを感じることができるようになるために松江にまで狂言を見に行ったような気持にさえなってきます。

 いつも配布してくださるニュースは、今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』という作品が問いかけている“科学技術は果たして人を幸せにするか”について、メアリー・シェリー夫人の『フランケンシュタイン』と対比させ、ハーンが、この作品を一雄に優しい言葉で語っていたことに注目することへいざなってくださっています。
 カズオ・イシグロが、ノーベル賞を創設したダイナマイトについて、これを人類がより良く人類の発展に使っていくか、破壊に使うかということがあるなかで、みんながより良い方向に勧めていくために寄与する人への賞であり、それをいただけることに感謝するといったコメントを聞いてもいました。私は受賞の発表まで彼の存在を知りませんでしたが、彼の言葉をいろいろテレビで見聞きして、ここまで進んでしまった科学技術に対して、これからの人類が強く心すべきことを丁寧に語っておられることに感動し、ノーベル賞の意義をも深く受け止められたのでした。

 ニュース最後8ページ目では、小泉八雲著「ある保守主義者」と、昭和19年刊行の丸山学著『英国人の東亜観』のコピー資料があります。
 ここには、西欧の世界制覇という覇権主義への宗教的バックボーンに触れてあります。このバックボーンによって刻み付けられた歴史。ここでは、このバックボーンへの東西の反発や反省がこれからの東西の世界観をどう変えていくのか見据えていく視線を持たされていきそうです。
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『理勢志』 (2)
2017/12/15(Fri)
 『理勢志』(1)で書いた解読方法は、正直言うと昭和40年後半から60年前半の解読方法です。
 その解読方法しか知らなかった私は、『家道訓』の解読からそのようにし始めました。ところが、途中から、解読書がすでに出版されており、それに全面的にすがるという新しいメンバーに翻弄されてしまいました。
 『理勢志』も可部古文書会が、解読書を出版されておりました。加川さんから、その解読書をいただきました。みんなで解読するのに2年かかったと言われました。
 『理勢志』についても、ナビゲーターのついている車があるのに磁石と地図で歩いて旅をするといったふうな、解読法はできませんでした。
 しかし、途中で、一文字一文字解読書の助けも借りながら読み解いて行きました。そのうち、今指導を受けている、加川さんが中心となって読み解かれた可部古文書会が出版した解読書にも間違いではないかと思える部分がけっこうあることを確認しあいました。
それで、おこがましくも、この間違いを見つけて、私なりの正誤表を作る気分で丁寧に読み解いていきました。

 このたび出来上がった私の古文書解読書は、本当に初歩の人向けの解読書となり、自分で満足しています。
 私の解読書の正誤表を作る後継者が現れるかもしれません。
 私の持っている図書のなかで一番の秘蔵図書となりました。

 私の家には私が作った『理勢志』とその解読書があり、松江城には『伊勢物語』がある。そう思って今夜も眠りにつきます。
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『理勢志』 (1)
2017/12/15(Fri)
 『理勢志』の解読を一応終了しました。
 『理勢志』は、芸備藩を1601年に福島正則が拝領し、その後幕府に報告をせず勝手に城の修復を行ったなどのために召し上げられ、後1619年に浅野長晟が拝領したりといった、広島藩拝領地の「安芸・備後」についてとある役人が書いたものを、後任の役人がこれは参考になると書き写し、『理勢志』となづけた冊子です。
 文末に「嘉永七秊甲寅春写之」とあり、1854年春に書き写したということです。1854年は安政と思われる方もあろうかと思いますが、11月までは嘉永でした。
 懐かしかったのは、つけられた裏表紙に(平田蔵書・可部)という蔵書印が押されていたことです。
 平田さんは、私が20代の頃、古文書教室の片隅で古文書解読の様子を眺めさせていただいていた時分、非常な熱心さで一文字一文字、ああでもないこうでもないと解読されていた方です。
 可部公民館の古文書クラブでは、当時は、解読する古文書を、下野会長がその日のものより少し多めに当時の青焼きで、全員に配布してくださいました。
 加川さんは、後年今風のコピーができるようになって、新たに下野さんのものをコピーしなおされた平田さんの冊子をコピーさせていただかれたのだと思われます。
 近世の国の組織や、それが地方に及ぼす影響や、大きな、事件・流行り病・天災・作物の豊凶・文化・文芸など研究されておられる大学の先生と、可部の方言や、産業、運搬経路や手段など、年寄りから聞いたり見せられたりしたことのある会員が、共同で一文字一文字解読されていく様子は、この50歳代以上の会員の方々がおられなくなったら、どうなることかと思ったものでした。会員ではあとは、30代後半の方が一人と20代の私一人でしたので。

 ところで、改めて、『理勢志』の解読を一応終了しました。ということの内容は、筆文字の『理勢志』の一文字一文字のもとの文字を原稿用紙に写し取るということです。たとえば、「候」という文字は、それに近いくずしから、ただの「、」だけのことまでがあります。
旧字、異体文字、俗字などの崩しもあり、文脈から、検討をつけて崩し文字の辞典で引いて、同じ姿の文字が「あっ!これだ」と崩す前の元の字を原稿用紙に書きつけるのです。
 たとえば、「弥」のくずしで、「いよいよ」と読ませるところがあります。何となく人名に出てきそうなこの文字が文頭にあったりすると、想像もできずとばします。ふたたび似た文字が出てきたとき、もしかして「弥」ではないかと検討をつけ、辞書を引いて見ますと「いよいよ」という読みがあることがわかり、それなら文頭にあってもと、納得できることがあるのです。こんな作業は、病気でもしなければできはしませんし、病気をしたのは、これをがんばりすぎたせいとも思えたりもするのですが・・・。
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病院通いの日々
2017/12/10(Sun)
 
病院通いが始まったのは、11月14日に、中野内科に行った時からです。
体がしんどく、咳と痰がよく出た上に、声がかすれて出にくくなったからです。
 先生は「14年ぶりですね。どうしました。」と言われ、症状を話すと、「もっと早く来ないと肺炎になったりしてどうにもならなくなるよ。」と、点滴をされ、4日分の薬をいただいて帰りました。
 いままで、いただいた薬がなくなるまで、病気が治らなかったことがあったかしらね。と、18日に再度中野内科に出かけました。「先生、なかなか治りませんね。」と不満げにいうと「もう歳だからね、今日も点滴。」と、また、薬も4日分いただいて帰りました。
 21日に中野内科には夫が出かけ、4日分の薬をいただいてきてくれました。
 体はずいぶん元気になりました。
 以後、たまった家事で毎日大忙しです。
 そのうち、22日、交通安全協会の定例会、24日交通安全協会亀山・亀山南の定例会に忘年会、26日、集会所の運営副委員長のため役員会、29日、交通安全協会の45kの餅つき手伝い、12月1日、年末の交通安全月間の道路での啓蒙活動、12月3日、安佐北区民文化センターでの「安全安心なまちづくり安佐北区民大会」の受付とステージ出演?、この日の集会所の運営副委員長のための総会には夫に行ってもらい、受付などしてもらいました。
 たびごと、来ていく洋服が違って、忘れてはいけないと整えるのが大変でした。
 12月2日には共立歯科に行きました。
 いかにも声がひどいのが治らないので、4日に野田耳鼻咽喉科に行きました。
 「こんなにひどくなるまで病院に来ないなんて、治るかどうか・・・」とひどく叱られました。「できるだけ声を出さないように」と、申し渡され、7日にも診察を受け薬をいただいて帰りました。
 明日、月曜日にもいく予定です。

 寝ている間、ウォルター・ラッセル・ミード著、寺下滝郎訳『神と黄金』をどこということなしに読みつづけました。読みづらく2,3度読んだところもありました。
 テレビで見る、ヨーロッパの見方、アメリカ、イギリスの見方が変わってきました。

 古文書も読みました。読めるようになること。内容がわかるようになること。
 わかっていないで読むことは、本当に難しいことです。
 ずっと昔、私たちの若かった頃、三篠公民館の運営委員長をされていたという金岡照氏が作られた、『広島藩における近世用語の概説』を、コピーして読み漁っています。
 夫も親しくしていた、西川公彬先生が三篠公民館の館長だったころ一緒に飲んだこともある人だと言って懐かしんでいます。
 この冊子を作るきっかけになった、各藩で、用語の用い方が違うということに着目したのが、「所払」という用語であることが私と一緒だったこともあり、そのことから、これだけの言葉について調べられたことに敬意を表しています。
 私は、これについて調べるために広島文教女子大学の図書館にまで出かけて調べました。ゆくゆく近世文学が専門で2年くらい前「武一騒動」について話し合った横山先生にもいろいろ教えを乞うことができたらと思っていた矢先、先生は10月10日に亡くなられたと聞いてがっくりきたところでもありました。
 応援してくれている夫の声援にもこたえるため、まだまだ病院通いは続くと思いますが、あきらめず、元気になるまで、頑張ります。
 
 
 
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『ふるさと賛歌』
2017/11/10(Fri)
 加川イツ子著 『ふるさと賛歌』を読みました。
 広島県安芸郡船越町、著者の加川さんはこの地で昭和4年に生を受けて、40歳までをそこで過ごされました。
 その40年のあと、可部で40年を過ごされ、80歳になられて、遠く船越町を偲んで書かれたのがこの冊子です。
 この本は加川さんの執筆・製本です。
 世界にたった一冊の本です

 加川さんからお借りしたとき、なにか加川さんのプライベートな部分に触れるような遠慮も少しありました。
 読み終わってみると、そんなことを感じるどころか、つい最近読んだ『銀の匙』を思い起こします。
 中勘助の『銀の匙』の原稿を読んで夏目漱石が絶賛したといいますが、私は、加川さんのこの素人抜けした作品に絶賛を贈りたいと思いました。
 ふるさとのこの町の所在地とそれゆえにたどってきた歴史、地形、景観、たたずまい、人々の暮らし、その中にあっての昭和4年生まれの加川さんの子どもの頃の生活がいきいきと活写されていることに、読みごたえを感じました。

 考えてみれば、著者は短歌でも、創作・研究結社「真樹社」の広島市北部の結社の選者をされている方でもあり、「内面客観」の追求に於いては長年の研さんを積まれた方でもあるのです。
 私にも書くようにと勧めてくださったのですが、とても書けませんと即答。原因はこの「内面客観」による文章の書き方というものがわからないからだと今気がついています。

 そして、この冊子作りなのですが、ハーンを知る前だとさほど興味を持たなかったかもしれませんが、彼の縮緬本を作ったといったものに心境的に近いのではないかということを思っています。以前大学に入学したころ、それを祝って多くの書籍を下さった広島文化科学館を作って初代の館長になられた滝口先生から、『凡无鴣』という約縦10センチ、横7センチの冊子をいただいたことがあります。これは仲間と200部作って、手書きで何冊目と書き込んで上から小さな印が押してあります。

 自分で作品を書いて、本に仕立てる。
 古文書の解読書の冊子作りももしかして著者の発案でしょうか!!!
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第207回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/11/06(Mon)
 11月4日、参加の日。
 朝からとにかく疲れていたのだと思います。 帰って寝込んでしまいました。
 今日はハーンの会があるから、という思いだけで、疲れを感じる間もないまま、できるだけの家事をし、その間、相談事をもってくる自治会の役員さんの相手もして、そのあとあわてて“可部公民館まつり”の古文書の展示を見せていただきに行きました。
 展示室では、待っていてくださった会長の辻村さんとお話をさせていただきました。
 帰りエレベータで出合ったMさんが偶然古文書の会員で、10数年勉強されたという人でした。この方から、文教の学長だったこともあった横山先生が亡くなられたことを聞いて、教えを乞いたい師がまた一人・・・。ととてもさみしい気持ちでした。

 昼食はいい加減に済ませて、とにかくリポビタンDを飲んで出席しました。
 風呂先生のⅠからⅨまで「ある保守主義者」では、
 1、 福井藩の武士の子として生まれ、そこで受けた躾・教育の影響
 2、 黒船来航による幕府の混乱
 3、 お雇い外国人教師を密かに観察する子どもたちの結論
   ① 首をうちおとせる
   ② 腕は強いが腰が弱い
   ③ しかし、鉄砲・大砲を持っていて訓練されている
       しかし、自分たちも取り入れて訓練すれば怖がることはない
   ④ 寒がり屋
 4、 明治維新。新約聖書を読む
 5、 キリスト教徒に回心
 6、 キリスト教を捨てて西洋へ出発
 と、ある保守主義者の要約してくださり、ハーンの出版した英文での作品にはⅥが抜けていると説明されています。もちろん日本文でも抜けているのですが、ナンバーは順になっていました。
 この抜けている部分が、彼が敬愛していた伝道師とともに新潟へ2年間くらい布教に行っていた時期のことが内容になっているのではないかと説明してくださいます。
 ここでの、布教の会場を占めていた者はほとんどが仏教の僧侶であり、そうとうな反発をうけたことを話してくださいました。なるほど、これは英文で西欧の人びとに読ませられるようなものではなかったのではという感想を持ちます。
 それだけに、よりいっそう読みたかったというのが感想でした。
 江戸時代の古文書で、武具奉行の解説では「鉄砲」は「鉄炮」となっています。日本のみならず、「鉄炮」から「鉄砲」への歴史も興味を持ったことでした。


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『銀の匙』
2017/11/05(Sun)
 中寛助著『銀の匙』を読みました。
 インターネットの図書館の青空文庫で読ませていただきました。
 昨日、11月4日、第207回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加して、『銀の匙』にまつわるエピソードを聞いて、どうしても読んでみたいと思いさっそく読みました。
 焼津の文学ツアーに来た人が、ハーンともう一人『銀の匙』の著者中寛助のミュージアムも見に行ったことが書かれてあったことから、風呂先生が3年間『銀の匙』それだけを中学校の教材に使った灘中学校の国語教諭の橋本武の功績について話されました。
 ところで、この『銀の匙』は、前篇と後編からなり、前篇は自分が生まれたときのことから、叔母に背負われてばかりいた幼少の時代、そして小学生のころの思い出がつづられ、後半はそれから青年になるまでの心情がつづられていています。
 書いてある内容は、読み方によっては他愛のないものなのですが、一時代の風俗のなかで育っていく子供の育ちを通して、その時代を知っていくことができます。用いられている漢字は、当用漢字以外の漢字を使用した本を読まなくなって久しい私たち世代にとって、大変読みづらく難しいものです。あてずっぽうに読んでいきましたが、その時代をしっかり掌握できるためには、そこに使われている漢字を丁寧に読み取っていき、また、一つ一つの物や事柄を丁寧に知っていくことではじめて書かれていることが理解できるでしょう。
 この話で3年間授業をされた、灘中学校の国語教諭の橋本武先生について考えました。
 文中、兄に行きたくもないのに魚釣りのお供をさせられていたころの話に、
 ≪「なにをぐづぐづしてる」といふ。
はつと気がついて
 「お星様をみてたんです」といふのをききもせず
 「ばか。星つていへ」と怒鳴りつける。
 あはれな人よ。
 なにかの縁あつて地獄の道づれとなつたこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであつたらうか。≫
 という部分がありますが、自分が先生と呼ばれて、それだけのことを子どもと一緒に勉強しただろうかと思ったとき、・・。また、
 ≪蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵をうむのをみて私の智識は完成した。それはまことに不可思議の謎の環であった。私は常にかやうな子供らしい驚嘆をもって自分の周囲を眺めたいと思ふ。≫
 というような文面がその先生の心境を映しているように感じられもしました。
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『ビルマの竪琴』
2017/10/30(Mon)
 竹山道雄著、『ビルマの竪琴』 ポプラ社 アイドル・ブックス7 昭和54年第14刷を読みました。
 10月14日(土)、の「広島ラフカディオ・ハーンの会」のとき、今学習している「ある保守主義者」の資料に竹山道雄の「私の文化遍歴」も紹介されました。
 それがきっかけでふと家にあった『ビルマの竪琴』を読みました。この作品も小学生の時読んで大変感銘を受けたことは覚えています。感銘は受けたものの内容は忘れてしまっていました。
 映画やテレビで何度も見る機会もあったらしいのですが、それも見ないで過ごしてしまいました。
 「おーい、水島。いっしょに日本にかえろう!」青いインコに教え込まれた部隊全員の強い思い。その思いを込めた合唱。
だんだんに思い出してきました。
 子どもの頃、感動したはずです。児童図書としては最高のものだと感じます。子どもたちにこんな素晴らしい贈り物があるでしょうかと思わされます。
 しかし、読み進むうち、8月に大岡昇平の『野火』を読んでまだ間がありませんので、戦場の状況、ことに敗戦間際の状況が心境に及ぼす影響については、違和感があり、著者は戦場経験がないのではと感じ、途中、著者の竹山道雄について「彼の年譜」や、他の作品も読んでみました。
  確かに経験がないということはわかりました。
 しかし、終戦間もない昭和21年に。原稿依頼を受け、この作品を手がけたいきさつと当時の情報の状況を読むと、経験のあるなしによらずこの作品が素晴らしい作品であるということがわかってきます。
 最初にこの作品の原稿を読んだ、児童雑誌「赤とんぼ」の原稿依頼者の藤田圭雄氏は、≪ぱらぱらと読んでいくうちに、私はいつの間にか、ぐんぐんとその中に引き込まれていきました。読み終わったときの私は喜びでいっぱいでした。すぐ、猪熊弦一郎さんに挿絵をたのんで、これで新年号ができたと思いました。≫と「解説」で語られています。それがアメリカ軍の検閲に引っかかり、うずもれてしまうところを、こんな立派な作品を埋もれさせてしまってはと、再度頼み込んで読んでもらい、許可を取り付け、遅れて第1部「うたう部隊」が3月に掲載された顛末も記されていました。
 ビルマに配属された部隊の人たちが、文明の遅れたビルマの人たちと日本人を引き比べてどちらが人間として尊い生き方であるかと論議するところなどは、いつの時代にも考えさせられる問題です。
 子どもへ向けての文章が、飾り気がなく率直で純真であることに最近なぜか魅力を感じています。
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「舞姫」
2017/10/22(Sun)
 森鴎外著、集英社の日本文学全集4森鴎外集から「舞姫」を読みました。
 太田豊太郎と名乗る自分は、旧藩の学館、東京での大学でも抜群の成績で、学士の称を受け、某省に出仕し、故郷から母親を呼び寄せ3年の後、「洋行して、一課の事務を取り調べよ」と命を受けて洋行します。
 ヨーロッパでは、目を見張るものばかりでしたが、自分は、このようなものには目もくれずの決心です。
 ドイツ語・フランス語とも十分な実力を備えていたため、事務方も進み、仕事の合間に赦しを受けて、大学での勉強もはじめるほどです。
 その間、自由な大学の風に当たり、自分の本当にやりたいことに気づかされてもいきます。その頃、まじめ一辺倒の自分に、嫉妬もあってか、周りの人間からつらく当たられるようになり、孤独と苦悩に身を置くようになります。
 そんな夕暮れに、父を亡くして葬式をあげる金が家にないため苦しみ泣いているエリスという女性に出合います。自分の大胆さに呆れながらも、家に送っていき、資金にと腕時計をおいて帰ります。その後、訪ねてきた女優の彼女とは他愛のない付き合いでしたが、彼女を思うことで、気持ちが明るくなっていきます。
 この交際が、同郷の者から長官の耳に入り、彼は職を解かれてします。そんなとき、母親の死を告げた手紙も届きます。
焦っているとき、相沢謙吉という友人が東京にいて官報を読んで事情を知り、ある新聞社にベルリンでの仕事の斡旋をしてくれました。
 彼はエリスと部屋を借りてつつましく暮らします。しかし、この新聞社の仕事は彼に、学問では到底得られなかった見識をもたらします。その内、エリスは妊娠して寝込んでしまいます。
 そんなとき、またもや相沢謙吉から天方大臣が彼に会いたがっているので、ベルリン一のホテルにくるようにとの連絡を受けます。
 大臣から急を要するドイツ語の翻訳の文書を受領します。帰りに、相沢と昼餉を共にし、彼は一切の事情を話します。相沢は自分を責めることはしませんでしたが、最後にエリスとの関係を解消するようにと断言します。
 相沢と大臣の仕事を手伝い彼の語学力は大臣の信頼を得るところとなり、大臣は、帰国時彼を日本に一緒に帰るよう促します。
 彼は、断ることができず、従うことにします。
 この機を逃すことは自国を失い、栄達の道を閉ざしてしまうことも怖かったのです。
 しかしそのあと、エリスへの赦されない罪を思い、彼女の待つ家に帰る足の運びがはかどらず、ベルリンの1月、雪のある寒空をさまよい体調を崩しついに寝込んでしまいます。
 熱が激しく、譫言ばかり言っていた数週の後、相沢が訪ねてきます。
 相沢から豊太郎がエリスと別れると言ったことと、大臣と日本に帰ると答えたことを聞いて妊娠中のエリスは怒りのためその場に倒れ、精神を病み治癒の見込みがないという診断で癲狂院(精神病院)に入院させられます。
 相沢は豊太郎と話し合ってエリスの母親に資金を与えて子どものことを頼んで帰国の途に就きます。

 この作品は10月17日に記録した「妄想」より先に読んでいたのですが、この全集本では作品が読み辛く、しっかり理解できないでいました。
 「舞姫」は、鴎外のなかでも有名な作品ですから一度は読んでいるとは思うのですが、このたび読んでこんなに読みづらいのに、若い頃は、どのような本で読んで理解したのか不思議な気がします。
この難解さは、今頃毎日解読している古文書以上とも思えました。思い直して今夜もう一度読み返しながら、記録した次第です。

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「妄想」
2017/10/17(Tue)

 森鴎外著、集英社の日本文学全集4森鴎外集から「妄想」を読みました。
 森鴎外を読むのは、ほんとうに年十年ぶりです。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、日露戦争時、兵隊が多く脚気で亡くなったとき、海軍は食事を改善しましたが、陸軍は軍医の森鴎外が改善を認めなかったためにさらに脚気で多くの兵隊が命を失ったことが記されてあり、何となく彼の作品から遠ざかっていたのでした。
 しかしこのたび、ハーンの会で、風呂先生が参考文献として挙げられていたので、「舞姫」につづいて、この「妄想」を読みました。
 ≪・・・・。そんなふうに、人の改良しようとしている、あらゆる方面に向かって、自分は本の木阿弥説を唱えた。そして保守党の仲間に逐い込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行りだしたが、元祖は自分であったかもしれない≫
と西欧に真似て日本をあれこれ改良しようという意見に対して異を唱え、保守主義だと思われる部分が、いま、みなで学習しているハーンの「ある保守主義者」の参考資料となる部分です。雨森信成以外にも、明治の時代、夢を抱いて渡欧して、行った先の西欧に落胆して、逆に日本の良さがわかり保守主義になった人が数あったことの今一つの例を確認できます。

 何年かぶりに鴎外の作品を読んで、ここに告白されている彼の人生観に出合い共感でき、改めて読んでよかったと思えました。
 ≪自分はこのままで人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。しかしその死はこわくはない。≫と述べているところ、また、
 ≪・・・その代わりに哲学や文学の書物を買うことにした。それを時間の得られる限り読んだのである。・・・・昔世にもてはやされていた人、今世にもてはやされている人は、どんなことを言っているのかと、たとえば道を行く人の顔を辻に立って冷澹に見るように見たのである。冷澹には見ていたが、自分は辻に立っていて、たびたび帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。帽は脱いだが、辻を離れてどの人かのあとに附いていこうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。≫
 西欧の哲学者が著作で、死を恐れないのは野蛮人だと述べているのに対して、森鴎外の心境がこのように語られていくのですが、「そうです。そうです。それが今の私たちの心境です。」と、まさしく今、私をはじめ、日本中に多数を占める高齢者の中の読書好きの人たちの思いを的確に代弁していると思えたことです。
 秋の夜長、大正時代の50歳の高齢者と、現代の私たち高齢者が共感できることに人生の深まりを感じています。

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第206回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/10/15(Sun)
 10月14日(土)、第206回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に夫と二人で参加いたしました。
 楽しみなハーンの会なのに、なんだかぜんぜん訳のわからない古文書にはまっていた1か月でどうしましょう。
 直前、ハーンの会の予習にこともあろうに、風呂先生の9月の『すみよし』への寄稿文を読むというあわてぶりです。
 最近世間を賑せているヒアリについても書かれてあります。末っ子でどうせ生まれたところから出ていく私ではありましたが、子どものころから、四里四方内でとれた用材で建てられた家に住み、その内で収穫された食べ物を食べることが一番といつの間にか思うようになり、害を及ぼす外来種については、ここではその天敵もその毒を消す植物などもないことから、里におかえり願いたいというのが私の偽らざる思いです。
 ヒアリから話は蟻に、「蟻」という漢字について、難しいながら「かどめ正しい」虫と説明してくださっています。これも私事ですが、漢字の中では義のなかの羊という字を一番大切な字だと思っています。理由はさておき、以前いた職場では子どもたちに、「食べ物の中で一番おいしいのは勿論羊羹よ。だって羊羹という漢字の中には羊という字が3つも使ってあるでしょう・・・。」と説明していました。「羊」と「我」についてはまた研究の余地がありそうです。
 ハーンの会では、1年ぶりに五十嵐先生が少しお痩せになられたものの元気になって参加され皆ほっと喜び合いました。
 「小泉八雲来焼120周年・焼津小泉八雲記念館10周年記念講演とシンポジュウム」へ、風呂先生、三島さん、古川さん、浮田さんの4人が参加され、その報告を浮田さんが発表してくださいました。
 第二部のシンポジウム「地域資源としての文学~小泉八雲による地域づくり~」、最近大学では、地域資源を掘り起こして観光資源にして、とにかく研究費を稼ぎ出せとかならず、あらゆるものを地域資源とすることが叫ばれているようです。
 漱石山房にあつまる高等遊民の時代が遠く感じられます。
 私だと、小泉八雲は大のタバコ好き。八雲の泳ぐ姿が海の沖遠くなってもタバコの火が消えなかったことを乙吉が証言しているのをどこかで読んだ気がします。タバコの形をしたキャンデイを作って、何時間なめていられるかとか、JTと共同して「タバコの火を何メートル消さないで泳げるか大会」の開催などが提案できそうです。

 勿論、「ある保守主義者」Ⅱ~Ⅲの途中まで、風呂先生の熱のこもった解説で、充分勉強させていただきました。
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旭山登山
2017/10/12(Thu)
 10月11日、かず子さんとけい子さん3人で白木の旭山に登りました。
 この3人での山登りは、私が39個の「あさきた里山マスターズ」認定対象の山をすべて登り終え、かず子さんとけい子さんの二人がそれにならって挑戦を始めて12個目の山です。
 年初めにかず子さんが階段で足を痛めて登れなくなり、さらに、けい子さんの娘さんが病気になったりでなかなか次へ登れなかったのですが、やっと日程が決まったので、私はチューピークラブの登山をキャンセルしての登山になりました。
 二人にとっては、全くの久しぶり登山ですので、簡単に登れて、道に迷うこともない旭山に決め、二人にも気楽に登れる山だから、と前置きしておいたせいか、二人とも忘れ物があったりして、9時20分ころに我が家を3人で出発しました。
いつも誰かに乗せてもらって行っているのですが、自分で運転していくとなると・・・。
 三篠川をさかのぼり、JR志和口駅の手前を左に折れて、さらに今では廃校になった白木高校の校門前に車を置き、向かい合っている高南小学校の周りをぐるりと回って高南小学校の裏から登り始めました。
 シダや笹を踏み分けて登るので蛇に出合うのではないかと心配してみんなでスパッツを装着して行ったのですが、蛇が体を温める道幅もなく幸い行きは蛇には出合いませんでした。
 以前、この山に登ったときはなかった倒木が多く、またいだりくぐったり、考えてみると、先日の暴風雨の後、裏山の福王寺でもみんなで倒木を始末するのにくたくたになったのでした。
 途中、下から上がってくる道があり、ここにも登山道があるんだね、といって、そのまま頂上にたどり着いてみると、「あさきた里山マスターズ」認定のしるしになるプレートがありません。以前にもほかの山でも風か何かで少し離れたところに落ちていたこともあったので、あたりを探してみましたがありません。そうこうしていると、かず子さんが、思い切ってもと来た道に降りてみようというので降りて、もう一つの登山道だと思ったところを降りてゆくと、だんだん登りになっていて、とにかくその道をあがっていくと、頂上にたどり着きました。
 それまでは、ところどころで、自分たちが車で走ってきた側の村がみえていたのですが、頂上では反対側の村が見えます。お弁当を食べて「あさきた里山マスターズ」認定のプレートの前で証明写真を撮り、こんもりとよく育って美しい苔をめでて下山しました。1時5分でした。
 そのあと、久しぶりに3人が隠れ家にしている家に行くと、長雨だったせいか思っていた以上に家中がカビでした。テーブルと、椅子だけ拭いて、コーヒーを飲みおやつを食べて休もうとした途端、それまで、しんどがっていたかず子さんは、たちまち掃除機をかけはじめ、私たちも、拭き掃除をしました。この家は、3人の誰の家よりも大きい家ですが、1・2階トイレとも、すべて掃除機がけと雑巾がけを済ませました。けい子さんと私は翌日1時間くらい時間が合いそうなので、水拭きした家の窓を開けて風を通しにまた来ることにして家を後にしました。
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琴引山登山
2017/09/24(Sun)
 9月23日、夫と二人で島根県飯南町の琴引山に登りました。
 調べていて、この9月23日は、琴引山山頂でお祭りがあるということを知り、お祭りの日であれば、二人で登っても熊に出合う心配はないのではないかという思いで、この日の登山を夫が計画してくれたのでした。
 肺が弱く、病気がちの夫は、二人だけなら、自分のペースで、途中無理になったとき、いつでも計画を中止することができるのでリハビリを兼ねての計画です。
 朝、6時30分に家を出発。54号線をひたすら走って、琴引フォレストパークスキー場に到着。駐車場で見かけた登山者の方に登山口を聞いて、出発しました。
 私はこの琴引山についての神話を何一つ知らずに上り始めたのですが、夫が道々話してくれるので、だんだんに、これは神聖な山だと気づいていくのでした。少し登ったところにそれを表示する案内板があります。
 途中、6人くらいの人が追い抜いて行かれます。何しろ急こう配なのでゆっくりゆっくり登りました。頂上に近づくと今度は下山者と出会います。駐車場で親切に教えてくださった方も下山してこられ夫を励ましてくださいます。
 頂上の方から、お祭りの太鼓の音が聞こえてきます。50メーターも登れば頂上という所に巨岩があり、その根元にブルーシートが広く敷かれていて、皆さんお弁当を食べて休憩をしておられます。行き着くとすぐ、観光協会の方々から思いがけず美味しい豚汁をふるまっていただきました。
 岩を回るように石の階段を上っていくとちっちゃな社務所のようなものが建っており、その前から見上げると、巨岩の裏側にもう一つの巨岩との間に急こう配の石の階段がありそこに大勢の人が所狭しと詰めかけておられるのと、その上に間口一間くらいの神社の立派な屋根のてっぺんが見えます。これが琴弾神社のようです。この日は9人の子どもさんの健康への祈願が申し込まれていて、その祈願の太鼓の音が聞こえていたのでした。若い新聞記者の方が階段をはさんだ二つの巨岩が意味するものについて耳打ちしてくださいました。つい最近古文書にのめり込んでいる私は、近世の「物成を下方にては御免米という」という古文書の文面の御免米について読み解こうと、「免」という文字を漢和辞典で調べると、先ずこの文字はお産をイメージする解説があり、女へんがついて分娩ともいうようにお産のことですとありました。ついでに、許すという意味があり、取れ高は従来すべて領主のものなのに、半分は免除されるということで差出す側からは御免なさいという意味で御免米といわせたことを理解したことを話しました。この若い新聞記者の男性はこれは新しく学んだことですと、びっくりするほど丁寧に挨拶されて、ついこの琴弾神社の石段の下から見た情景が「免」の文字にぴったりだったのでこんなことをおしゃべりしたことに面はゆい思いをいたしました。
 階段を下りて回り込む道を頂上に登ると、見晴らしのいい頂上に二人の観光協会の方がおられ、御一人の方が頂上におかれた可愛い観光協会のキャラクターの石造りの猫の置物を作られた石材店の方だということがわかり、私は幸い猫とその製作者に加わっていただいての登頂記念の写真を撮っていただくことができました。(この写真は夫のブログに近々掲載するとのことです)
下山路は、大国主命の御琴があったという岩屋を見るために真北へ向けての道を降りていきました。途中で偶然チューピー登山クラブの方々が登ってこられるのに出会い、下山道の情報が得られたのはラキーでした。お蔭で岩屋を充分見学できたり、日暮れまでに駐車場に到着できたのは感謝でした。安全運転もできて5時48分、我が家に無事到着できました。

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一兵山家山・中野冠山縦走登山
2017/09/21(Thu)
 9月20日、裏山散歩の仲間に一兵山家山・中野冠山縦走登山に連れて行っていただきました。
 19・20・22日のうちのいずれかということでしたので、19日・21日と交通安全協会の行事が入っていたりして、ぎりぎりまで、参加が危ぶまれたのですが、その日程ではなかったので、参加させていただくことができました。
 参加者は12人でした。
 いつものように水野さん・生田さん・羽柴さんが車を出してくださり、私はほかの2人と羽柴さんの車に乗せていただいて出発です。
 豊平から広域農道を経由して、芸北町の一兵山家山登山口の来尾峠駐車場に到着しました。一兵山家山登山口は島根県と広島県の県境です。
 下山するところがサイオト集会所のすぐ近くですので、一台の車をサイオト集会所の駐車場に置きに行かれました。その間柔軟体操など登る準備をして、みんな揃うとゆっくり登り始めました。
 直前の本郷での登山の時に、先頭についていく方が楽なのではないかと思っていましたので、先頭に続いて登り始めました。先頭は水野さんでした。
 山道には登山口から、ずっと県道の杭がところどころに打ち込まれています。その県境は、最初の目的地一兵山家山山頂から、縦走した野上山山頂、ノベリ山山頂・ヤオノ谷峠・中野冠山山頂までずっと続いていました。そして、県境である参道には柘植の木がずっと植えられているように思えます。そして、その山道が塁のように思えるところがほとんどで、この塁は、いったい何のためだろうといろいろ連想しながら歩きました。
 道にはときに熊の糞があり、笹がけっこう高くぎっしり生い茂っており、見通しが悪いので、笛を吹いたりして熊対策をしました。
 道々、マムシに出合いました。つづいてもう一匹、また一匹と連続3匹に出合いました。水野さんはザックからスパッツを取り出して装着されました。
 そのあと、まだ小さいうす赤い色の蛇に出合いました。その蛇は水野さんに向かってくる構えでなかなか動きません。その次には黄色いスジの入った大きく長い蛇に出合いました。これは、水野さんが知らずに尻尾を踏んづけたと言われました。とうとう一兵山家山頂までに私と水野さんは5匹出合ったということになりました。あと3匹出合えば八岐大蛇だなどと言って笑いあいました。それから中野冠山山頂まで延々と歩きます。
 昨年このコースを登っておられる方々が、昼食をどこにするか話し合われ、少し遅い昼食になりました。私は、前回うなぎ丼弁当を作って行ったのがおいしくて元気が出たので、またうなぎ丼弁当にして、あとは梨とブドウだけにしてこれが残すこともなく正解でした。お腹もすいていたので本当においしくいただきました。あといただいたチョコレートをひとつ途中で食べました。
 中野冠山山頂はのびのびしたみどりの広場になっておりの展望は曇って靄がかかっていたにもかかわらず足下の村がきれいに見えました。
 下山して車に乗り込むやバケツをひっくり返したような大雨になり、タイミングがよかったねと話しました。

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「高山城・新高山城」ハイキング
2017/09/15(Fri)
 9月13日水曜日 晴れ 中国文化センター前期第6回目の「高山城・新高山城」ハイキングに参加しました。
 集合は本郷駅に9時でしたが、夫が車で送ってくれました。
 夫はそのまま本郷の町を散策して、買ったばかりのお気に入りのカメラの試写で、待っていてくれることになりました。
 高山城から登ったのですが、山行計画書の内容に変更があり、下山道に計画されていた南斜面からの登山道の往復になりました。もともと、二つの山を登るのは体力に不安がありましたので、この計画変更は私にとってはラッキーでしたし、終わってみると参加者全員にとってもラッキーだったようでした。
 登山道の様子は、思っていた以上に様子が変わることがあります。引率の方が数日前、計画登山道を歩いて変更してくださったことに感謝するばかりです。
 高山城・新高山城ともに、小早川隆景の居城だったということで、私としては、ハイキングというより、歴史探訪という気持ちもあり、久しぶりに歴史小説『小早川隆景』など読んでの参加でした。
 しかし、兄の吉川元春の痕跡のように親しんだこともありませんでしたし、じっさい本郷という町で足をとどめたこともありませんでしたので、そんなに期待していたわけではありませんでした。
 ところが、新高山城は三原城ともに、2017年4月6日「城の日」に、財団法人日本城郭協会が、設立50周年の記念事業の一環として、日本百名城を発表しましたが、そのなかに含まれていて、その幟が誉れ高く役場にも飾られており、改めて町を挙げて史跡保存に力を入れておられる様子がうかがえます。
 ですから、両方の山頂の高山城跡・新高山城跡では、予想に反して歴史を確認することができました。とくに、新高山城では、頂上へ至る道々でも、鐘の段、土塁が今も残る3段の番所跡、匡真寺跡など、よくわかるように、草も刈りこんで、木もできるだけ生えさせないで整備し、道案内や丁寧な説明版なども設置されています。
 山頂からは、眼下に沼田川が濠のようにあり、天空にあって、周囲敵の動きは手に取るように掌握できそうです。
 隆景は300年以上の歴史のあった高山城から、新しく築城した新高山城に移るのですが、45年で城を取り壊して三原城に隠居しました。
 高山城を下山して、二つの城山の中央を流れる沼田川にかかる橋を渡って、新しく築城した新高山城登山口まで川に並行する道路をさかのぼり、また下山して、沼田川の流れを見ていると、まさに、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・。」と、鴨長明のような気分になってきます。

 このハイキングでは、新高山城の中の丸のすそで初めて「テイカカズラ(定家蔓)」の種子を見つけました。あまりにも葉っぱが紅葉しているので、「テイカカズラ」かどうか不安だったのですが、帰ってネットで調べてみるとそのようです。福王寺でもたくさんの「テイカカズラ」はよく見るものの種子を確認できたのは初めてでした。
また、道々、「ひとつば」が、途中で二枚に分かれたのと、三枚に伸びたのとを見つけることができて楽しむことができました。

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『エディターシップ』
2017/09/13(Wed)
 外山滋比古著『エディターシップ』株式会社みすず書房1975年2月発行を読みました。
 昭和47年秋からから49年春までの間、雑誌「みすず」に断続的に連載された13のエッセイをその順に並べ、最後に新稿を加えたとあります。
 エディターシップという言葉初めて出会った気がします。語義は
 ≪「一、編集者の地位〔職・職分・権限〕 二、編集上の指示 三、編集・校訂」とだけあって、はっきり編集に限定されている。≫だということです。
 最初のエッセイ「ある経験」では自分が考えたこともない編集者を2年の約束で頼まれ、ほとんど校正に終始することに戸惑いながら煩悶する気持ちが書かれています。
 ここでは、私が高校を卒業して3か月和文タイプを学び、建設会館に就職し、合同庁舎の中国地方建設局に記者クラブの人たちに交じって、毎日工事の発注発表を聞き取りに行かされていた頃のことを思い起こします。清書して上司にあげた内容が正確だったか、翌日配達された業界新聞も含めて全てにびくびくしながら目を通していました。新聞社が間違っていたときは、いつも助けていただいているので、電話で知らせてあげました。半年もすると、自分も間違いだらけのタイプを打つのに、新聞を開くと間違いだけが目に飛び込んでくるようになって不思議でした。
 こんなことが思い出されてか、読書に身が入ります。だんだん編集長として成長し、編集者が売れ行きの為に作品のタイトルまで考える部分へと話が進んでいくと、いよいよ編集の仕事の魅力に引き込まれます。
 読者と作者の間を結びつける役割をするのが編集者の仕事である。という建前はわかるもののそうはなかなかいきません。
 編集について考えが突き進み深まっていくと、「編集」という語にかなり広い意味を与えてきます。雑誌や本の編集者が行う「編集」に限らず、私たち一般の人間が誰でも行っていること、例えば言葉を使って誰かと話すこともそれです。なぜなら、一つひとつの単語を選び出し、組み合わせて何かを言おうとすることは、紛れもなく「編集」による創造だからです。この他に、数ある食材を用いて料理をすることも、争っている両者を調停することも、人間誰もが自覚しない「編集」で、自分の人生をどう編集していくかというようなところまで話が進んでいきます。
 私は今、このブログを書くに当たり、まず、この本の内容を読んでそれが分かったとして、その分かったということは、分析できたということで、分析してバラバラにしただけではなにかうすら寒い気がして、その分析できたものを、どのように書き残そうか、あるいは読み捨てて、書かないでおこうか、しかし、この本から受けた様々な概念の変革で今までになくずいぶん自分が偉くなったような気がする。それをどう書き残せばいいのか、このようにあれこれ考え、バラバラあれこれを結びつけてこのように一つのブログ記事を創造する。
 創造することに於いて、ばらばらあれこれの橋渡しがなされることの大切さを思うと、素直に編集ということの深い意味を・・・・。
 そうではなくて、小泉八雲の再話編集のすごさについて並行して考えさせられたのでした。


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第205回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/09/11(Mon)
 9月9日(土)、第205回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加いたしました。
 朝から、裏山登りを中止して、大洗濯をしたり、迷惑がる夫を尻目に家の片づけや掃除をしてお風呂に入ってさっぱりして、術後少しづつ調子を上げている夫と参加いたしました。
 会は、寺下さんの開会のことばの、寺下さんが翻訳された『神と黄金』の著者ウォルター・ラッセル・ミードが来日されるので面談をし、その報告を後日してくださるとのお話に期待を寄せるところから始まりました。
つづいて末国さんが、「イエイツと周辺人物(日本の能に至るまで)」と、「人物相関図」の資料を作ってきてくださり、その解説をしてくださいました。
 以前、古川さんが東京に能「鷹姫」を見に行かれた報告をされたとき、イギリスの脚本を日本の能で?とその結びつきを意外に思ったものでしたが、そこへ至るまでの人と人との交わりを感じる報告でした。
 風呂先生の『ある保守主義者』についての解説は、やってもやっても言いたりないというほどの熱のこもったものでした。
言ってみれば一言、西洋の近代化を取り入れることと引き換えに、日本の伝統ある精神文化を軽んじることの愚に警鐘を鳴らしているというものですが、当時そのことに確信をもって執筆することができたハーンの思考と筆に力を与えたものは何だったのか?
そして、イギリスやアメリカでのその出版が、以後西欧諸国の人々に与えた影響がどのようなものであったのか?

 少し前、何かでマッカーサーについて読んだことがありました。
マッカーサーは子どもの頃日本に来て、日露戦争に功のあった東郷平八郎などにも会っており、彼らの人物像に非常に感銘を受けておりました。長じて、太平洋戦争の時、マッカーサーはフィリピンで日本軍にひどい目に遭い、部下を置き去りにして逃亡せざるをえないという屈辱を味わったことがありました。それで戦後、日本にやってきたとき、日本人の持つ忠誠心や質実剛健的な生活信条など、日本人の良き特質をそこなわせるような日本経営をすることで、日本人を骨抜きにしてしまおうという怨念があったというような内容であったと思います。
 また古い話ですが、井上ひさしの著作によるものだったと思います。戦国時代、スペイン艦隊の一人が、キリシタン大名にスペイン艦隊をくっつけて、日本を統一させればいかが?とマカオの司令部に具申したとき、茶の湯などで日本人の武将などと深くかかわっていた司令部に、「あのように忍耐強い日本人に勝てるものか!」と一喝された場面があったことを思い起こします。司馬遼太郎によれば織田信長戦力は当時世界一だったとありますから、一概に精神力だけで量ったものでもないという思いもしますが、これら日本人をよく知る西欧人への日本人の精神力の脅威を思い起こします。
 それにしても当時、海外留学など渡航をした日本人は多くいます。私がひそかに興味があってほとんど読めていない、軍事力を背景にした帝国主義に価値を認めなかった南方熊楠 や、おくれて漱石、鴎外などあまたいるなかで、雨森の渡欧理由などの影響についてその特徴を見出す研究ができたらとも思っています。

 風呂先生の『ある保守主義者』についての解説は、次回にも引き継ぎますので今からワクワクしているところです。


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『三次稲生物怪禄(ミヨシイノウモノノケロク)』
2017/09/06(Wed)
 『三次稲生物怪禄(ミヨシイノウモノノケロク)』を読みました。
 古文書を習っている加川さんに頂いたものです。表紙には『三次稲生物怪禄』に続いて「解読ノート{可部}古文書同好会」とあり、非売品です。
 もちろん加川さんも解読に協力された主要の一人ではないかと思われます。
 寛延2年(1749)、弟と二人暮らしの稲生平太郎16歳のとき、隣家の元相撲取りの三津井権八と五月のある夜に肝試しをします。五月雨の心細い夜を平太郎はただ一人、鳳源寺の裏山にある比熊山山頂の千畳敷に登り、触れると祟りがあるという天狗杉へ結びをつけて帰り、そのあと権八も登ってきました。
 それから二か月経った七月一日から三十日にかけて、夜な夜な、あるいは昼間から、だれか尋ねてきている人がいても、いろいろな妖怪変化の類が、手を変え品を変えて平太郎の家に出てくるようになりました。平太郎だけがいる時に出てくるのではないので、このことは三次や近郷の人びとの知るところとなり、門前に群衆が集まってきたりもし、あまりにも騒がしいので、村方役所より、「見物に出ざるように」とそれぞれの村役人に触れさせるほどでした。
 何かあってはと弟の勝弥は叔父に預けます。
 親戚の者、近所の者、家中の者と、狐のいたずらではないかとか、狸のいたずらではないかとかわるがわる跳ね罠を持ってきて仕掛けてくれたり、西江寺から仏影や野狐よけのお札をもらってきて居間にかけてくれたり、踏み落とし罠を持って来たりして応援に駆け付けてくれますが、どれもこれも役には立たず、みんな恐怖の為に逃げ帰っていきます。
 よく応援に駆け付けていた権八は、病を得て、怪異の気に打たれたのかついに死んでしまったりもします。
 しかし、平太郎は、だんだん相手にしなければ、どうということもなくおとなしくなることもわかってきて、疲れると、応援が来ない方がいいと思う日もあります。そんなことで、ときには命に危害が及びそうになるときでも、平太郎だけは平然として少しも怖がりません。
 そして、ついに七月の晦日、平太郎は「いつまでこんな物怪の守りをすることやら、頃合いを見て闘い討ち捕ろう」と思っています。日暮れ時には晴れて、夜十時頃また現れたと思い、ここぞと抜き打ちに切り付けると「待たれよ」と言い「左様にあせってもそなたの手に打たれるような、我にては非らず。言い聞かすことが有って此処に来たれるなり。刃物を収め、心を鎮められよ」とのべ、魔王の山ン本五郎左衛門と名乗ります。平太郎の大嫌いなミミズを出して彼をためし、平太郎の気丈を確認し、「平太郎は今年難に会う年だったが、もう難は終わった」と述べ、「しかしこれから難があれば北に向かってはや山ン本五郎左衛門が来たれり」と申すべしと言って、おじぎをしてでていき、それからは物怪も出なくなったという話でした。
 この書物に出てくる比熊山も鳳源寺や西江寺など見知っている私にとって、とても身近に感じることのできる怪談話でした。
 近いうち、改めて訪ねられたらと思ったことでした。

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『家道訓』
2017/09/05(Tue)
 4月20日から解読を始めた古文書の『家道訓』を一応解読して読み終わり、今朝、一つ一つの崩し文字を、もとの文字に書き換えた原稿用紙を綴りました。
 近所の加川さんにお願いして教えていただいていたのですが、8月は、お休みにしました。体調不良の私は、夫の入院もあったりして、その間古文書には全く触れませんでした。
 9月から再開して、2日に終わったのです。
 最後に辞書を引いたのは、
 ≪古人貧しきハ束脩をおくり冨め流盤玉帛越於く流(古人貧しきは束脩を贈り、冨めるは玉帛を贈る)≫にある、束脩玉帛で、束脩は干し肉、玉帛は玉・絹でした。最初に引いた古語辞典にはなく、漢和辞典で確認できました。
まだまだ辞書を引いて調べるべきものがあったとは思うものの、完璧と思えるようにはなかなかいかないものだと改めて思います。
 そうはいってもできるだけ完璧に近づけたらとの願いから、途中から、歴史書もよく読まれていて博学な水野さんに仲間に入っていただきました。
 わかっているつもりで見過ごしてしまうところに気づくことができたり、彼女の今までの経験によって、解読が広がり、深められていくことへの願望がありました。
 とにかく読めるようになりたいと家庭で解読書を利用して、努力に、努力を重ねた彼女は、家道訓の終わりの方では、解読書を観ないでスラスラ読めるようになりました。
 私が、20歳代の時、可部公民館の古文書の会に入れていただいて少し学んだ時のことを思い起こしてみると、水野さんが参考にした解読書の、斉藤茂吉著、(貝原益軒の名著『家道訓』を読む)という副題のついた『人間としての最高の生き方』という本は出版されておりませんでした。
 それで、彼女にその本を紹介し、彼女が図書館で見つけてこれを予習に利用したのでした。このような本の存在によって、古文書の解読の方法が形を変えていったことにいろんなことを考えさせられました。
 主婦になってから大学に入って源氏物語の講義を受けました。講義内容については忘れてしまいましたが、購入させられた宮内庁書陵部蔵青表紙本源氏物語の『須磨』は、表紙の文字からして『春満』(すま)の崩し文字で、中身の解説以外の本文は、変体仮名です。授業がどのように進められたか忘れましたが、この変体文字については、講師の先生より、大学受験前に可部公民館で近世の古文書を少し学んでいた私の方がよく読めた記憶がありました。読めるということとこの作品の背景や内容や意味や文学性を知ることとは別の作業であることがよくわかります。
 このことは、私が翻訳もので了解するだけではほんとうにわかったといえるのだろうかと、無能にもかかわらず、原文に挑戦することと似ています。原文にこだわって、限られた時間の勉強が上滑りになったのが先月のハーンの会への反省になったことを思い、自分の能力の限界と興味への充足をいろいろ考えさせられ、次に挑戦する『理勢誌』への取り組みについても考えてみたいと思わされました。
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『保守とは何か』
2017/09/02(Sat)
 福田恒存著『保守とは何か』をすこし読みました。
 文春学藝ライブラリー2015年第3刷発行の文庫本です。
 先日、小泉八雲著 平川祐弘訳 「ある保守主義者」を読むときに、保守という言葉について、これは、その地域その時代によって違うものではなかろうかと思っていたとき、図書館で、この本を見て借りてみようと思ったのでした。
 著者の名前は知っていたものの作品を読むのは初めてで、それへの興味もありました。
 しかし、読み始めてみると、胃が痛くなってきます。仕方なくところどころ読んでいき、最後の「解説」にいきあたると、感じるところがあり、また少し読み返しました。
 「解説」の著者浜崎洋介は、福田恒存が1912(大正元年)生まれであるのに対して、1978(昭和53年)生まれです。ついでに言えば、ほぼ1949年生まれの私がその中間どころです。
 ここで、生年月日にこだわるのは、ここでいうところの保守がよくはわかりませんが、生まれによって保守のイメージが変わってくるような気がするからです。
 この解説者が、自分の生まれた世代について述べているところに大変興味を抱きました。
 ≪戦後の、しかも高度成長期後の日本に生まれた私には既に自明な伝統などありえなかった。と同時に、冷戦後の時代を生きる私には、既存のイデオロギーはどれも偽物にしか見えなかった。とはいえ、消費生活の夢に戯れるといった余裕もバブル崩壊後を生きる世代には許されてはいなかった。いいかえれば、頼るべき過去は既になく、来るべき未来も未だなかったのである。そして、既にないと、未だないという二重の「ない」を生きるデカダンスが最後に縋るのは、いつでもロマン主義的な観念である。今ある現実の彼方に、ここではないどこかを思い描くこと。そのユートピアによって、断片化する社会と、あてどなく浮動する私の不安を吊り支えること。進学するでも、就職するでもなく大学を出た私は当時柄谷行人によって結成されたロマン主義的政治運動NAMに向かうことになる。・・・・・実際、NAMは、たった三年余りであっけなく潰えていった、むろん、世間知らずの知識人が、おためごかしの綺麗事を並べて自滅していく図など、近代日本にはありふれている。しかし、自らのルサンチマンに目を瞑り、周囲の忠言に耳を貸さず、難解に秘教化された理屈を身元保証として、そのおためごかしに乗ったのは、他でもない私自身だったのである。とすれば、いまさらの自己反省や自己批判は全く無意味だろう。なぜなら、反省し批判している当の「私」自身が一番信用ならないのだから。「自己喪失」という言葉の意味を、私は初めて思い知る気がした。・・・・・・≫この文章に続いて本文を読んでいくのなら、著者福田恒存の文章が少し理解できる気がしてきます。
 それにしても、この解説を読むと、今40歳くらいの人たちの行動が痛いほどに理解できてくるような気がします。
 
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『ギリシア神話』トロイアの書
2017/08/31(Thu)
 斉藤 洋(文)・佐竹美保(絵)『ギリシア神話』トロイアの書 を読みました。株式会社理論社から20010年3月の初版本です。
 『ギリシア神話』オリンポスの書・ペルセウスの書・トロイアの書と3冊シリーズの中の第3巻です。
 最初、
 ≪トロイアの戦争について話すとき、いつのことから語るべきだろうか。
 ギリシア軍の総帥、アガメムノン王が戦いを決意した日だろうか。
 それとも、トロイアをめざし、千艘をこす軍船に乗った一万のギリシア軍将兵がアウリスを出航した日だろうか。
 あるいは、トロイアで最初の戦闘が始まった日だろうか。
 否、否、否・・・・・。
 トロイアの戦争がなぜ勃発したか、その原因をさかのぼれば、世界の最初の日から語らねばならないだろう。だが、それでは、あ まりにも遠い過去から始めることになる。そこでわたしは、プロメテウスがわが父ゼウスに、ある秘密をあかした日から、始めよう と思う。≫から始まります。
 もともと、ホメーロスのイーリアス・オデッセイを読むために始めた児童図書の『ギリシア神話』の読書でしたが、このたび購入した世界古典文学全集(筑摩書房発刊)の『ホメーロス』でさえ、最初から、もうトロイ戦争のさなかから始まっています。
 でも、戦争が始まった原因から起こしてあるところが、ギリシア神話の特徴をより理解できて面白く読めます。
 それでも、原因をさかのぼるには、世界の最初の日から語らねばならないだろう。という部分に呼応して、物語の最後の「跋(ばつ)」で、語り手のアテナが
≪いったい、あの戦争はなんだったのかと・・・・・。
 そうそう、だれかがこういっていた。
 あの戦いは、神々の王ゼウスが秩序の女神テミスと協議して、ふえすぎた人間をへらそうとたくらんだ結果だったと。そういえば・・・・・。≫と思い当たる部分を、原因のところを引き合いに出していますが、そういえば、戦いの途中でも、ゼウスが係るところで、これほど死者が出ているのだから、他の方法を命じればいいのにとアテナが思わせられる部分が何度かあったように思われます。
 それにしても、秩序の女神とともに、人間が増えすぎるからと言って、戦争を考えることについては意外な結末でした。
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『ギリシア神話』ペルセウスの書
2017/08/30(Wed)
 斉藤 洋(文)・佐竹美保(絵) 『ギリシア神話』 ペルセウスの書 を読みました。
 株式会社理論社から2009年10月の初版本です。
 『ギリシア神話』オリンポスの書・ペルセウスの書・トロイアの書と3冊シリーズの中の第2巻です。
 この書は、ゼウスと人間の娘ダナエの子ペルセウスの英雄譚です。
 この物語も、オリンポスの書同様アテナによって語られます。まずは、「英雄とは」という定義から始められます。英雄とは知恵と力と勇気に於いて、神々と比べられるほどでありながら不死ではなく、人間と同じく死をまぬかれぬ者のことだったが、神々を両親のいずれかに持たぬ英雄もいるとしています。
 英雄と言われたペルセウスは父がゼウスで、母はアルゴスのアクリシオス王の娘ダナエです。アクリシシオス王は、娘のダナエが男の子を生み、その男の子はいずれ祖父アクリシオス王を殺すことになるという神託を受けていたので、ダナエが子どもを産まないように、男性が近づけられないように地下におしこめてしまいます。
 しかし、神々の王ゼウスは、金の雨になって地下に侵入して、ダナエは男の子ペルセウス(降り注ぐ黄金より生まれた者)を生んでしまいます。それを知ったアクリシオス王は、娘のダナエとペルセウスを棺に入れてエーゲ海に流します。
 セリフォスという島に流れ着きそれを救ってくれたのが漁師のディクテュスで、母子ともに彼に世話になってペルセウスは成人します。
 なんといっても美しいダナエ、ペルセウスはダナエを奪い取ろうとするディクテュスの兄ポリュデクテス王から母を守るための戦いに挑みます。
 そのために、メドゥーサの首をとったり、アイティオピアで怪物を倒したり、ケペウス王の弟、ピネウスとその兵士たちと戦ったり、セリフォス島でポリュデクテス王をやっつけたりします。
 その戦いには、語り手であるゼウスの異母兄弟であるアテナも手伝う場面もあります。このことは、ペリセウスが戦うべき戦いをしたことを意味していると思えます。
 今後どこででも暮らしていけるようになったとき、母親のダナエが、故郷のアルゴスに帰って父親に会いたいと言い出します。ペルセウスは、自分が祖父を殺すという神託を受けているからよすように言うのですが母親は聞き入れず、それなら武器を持たずに、父親を探してくれるよう頼みます。仕方なく父親を探す旅に出かけます。
 英雄の誉れ高いペルセウスは、途中ラリッサの町で五種競技が行われており、円盤投げに誘われます。そのとき投げた円盤が、なんと、ちょうどそこにラリッサの領主の食客になって観戦していたアクリオス王に直撃し死なせてしまうのです。こうして一応神託は成就するのですが、あれほど祖父に会いたがっていた母親のダフネが、実は自分が息子に代わって父親のアクリシ
オス王を、殺すつもりだったのではないかというアテナの感想で終わる物語でした。
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